merlinrivermouth’s diary

https://twitter.com/@nnmwj

日本人の「あまえ」文化

https://www.koubundou.co.jp/smp/book/b157207.html

日本人は自身がすべからく何かにあまえているが、あまえている自覚はない。しかも概ね「あまえている」という言葉を取り違えていたりする。

日本の新自由主義論者は障害者などの社会的弱者を「自己責任だ」と切り捨てる。これは社会的弱者が社会にあまえているという主張だろう。しかし社会的弱者は自己決定の結果として社会的弱者になったわけではないから、社会にあまえているわけではない。

翻って、社会的弱者を「あまえている」「自己責任だ」と主張した者が潔く罰を受けたり、自らが不正な制度の犠牲になった時に弁解すらしなかったという例があるか?と問われると、相模原障害者施設殺人事件を起こした植松くらいしか聞かない。

社会的弱者を「あまえている」と主張している者は自らが似たような状況になる想定が全くないのだろう。これが「あまえ」である。

他者に対して殊更攻撃的、侮蔑的、迫害的な言動をする以上、それらの主張を自らに課す道義的義務があるが、そのようなことになる想定をしていない。自らが招いた結果に対して、道義的な責任をとる覚悟もなく、他者を攻撃する。これを「あまえ」と言う。

日本において、ネット上だけでなく日常的に「自己責任」をふりかざす人間ほど、この傾向が強い。他人を「あまえている」と評価するくせに、自身は責任を一切とるつもりがなく、その想定すらせず、そもそも覚悟がない。まさに真にあまえている。

 

20年前、私が禁煙宣言した挙句に失敗した時、父親が笑った。

「宣言するから悪い」。

他者を排斥する思想や社会的弱者を迫害したい衝動を持っていたとしても、公言しなければ内心の自由だ。だが、一度それを口に出し、しかもその正当化根拠が「あまえ」ならば、実際に自らがアンフェアな制度の犠牲になった時に、過去の発言の落とし前をつけるべきだし、それなしで自らの利益を守ろうするべきではない。

「あまえている」と見做されたくないならば。