merlinrivermouth’s diary

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(社会)ツイフェミはフェミニストではない

Aという文章があって、その主張の補強がBだとします。B部分に誤りがあったとして、果たしてAという主張が誤りだと言えるでしょうか?

言えませんね。主張は主張で、補強は補強でしかありません。主張が誤りだと言う人は文脈読み取れていません。

枝葉部分の誤りを強調し、読者をミスリードするような反論をするのは、卑怯で下劣な行いです。Aに反論したいなら、Aの主張に真っ向から反証しなければなりません。

しかし、私が鑑みたところAの主張に反証するのは難しいですね。何故なら、私はAの主張に一定の説得力を感じたからです。

 

ツイフェミはまたしてもある広告を批判したそうです。違法行為としてはグレーで、私としてはあまり感心しません。

そして、ツイフェミはミソジミスト(仮)にミラーリングの絵を描き、公表したところ、全く失敗したそうです。

 

私がツイフェミを批評する上でポイントにしているのは①自己選択権②男性嫌悪③個人主義の否定の三つです。

 

性的な描写をするのも、それを受け入れるのも、自己選択権です。この自己選択権は容易に否定できず、一歩間違えば違法になるほどの西洋近代では極めて重要な概念です。

この度、温泉の広告をツイフェミは批判したらしいですが、この温泉が公的セクションでない場合、違法です。ですので、広告に問題があると考えた場合は非常に慎重に提言する必要があります。公然と批判するのではなく。

そして、そのように迂遠な手法をとらなければならないのは、単に違法というだけではなく、他者の自己選択を尊重しなければならないからです。

フェミニズムは近代の概念であり、前提とする大原則として自己選択権の尊重が存在します。そもそも女性の自己選択権を守ることがフェミニズムの淵源です。どうして、他者の自己選択を否定しておいて、自身の自己選択権を守れという主張が説得力を持つでしょうか?

ツイフェミは自己選択権に関して、あまりにナイーブに過ぎます。というか、ほとんど全く考慮の対象外にしているように思えますが。

 

ツイフェミがミラーリングを用いて、男性の外見を面白おかしく描いてしまったのは、彼らの思想をはからずも炙り出してしまった結果に思えます。

私はかつて「弱者男性を批判できない」と言っただけで、ツイフェミからインセル呼ばわりされました。こういった経緯から、彼らの主張を総合して、彼らがフェミニズムというより男性嫌悪に重点があるということを過去に記述しました。

仮にツイフェミが男性嫌悪ではなく、女性の自己選択権を主張するならば、この場合、男性の外見を表現として用いて反論するでしょうか?

フェミニズムが女性の過度に性的な描写を問題にするのは、女性が性の対象にならざるを得ないために、女性の職業や社会的地位に一定の歯止めがかかると考えているからです。男性の過度に性的な外見を描写して反論しても、男性の社会的地位に一定の歯止めがかかることはありません。

フェミニズムにとって性の描写というのは主題ではありません。あくまで、男性並みの自己選択権と社会的地位の向上が目的です。反論としてフェミニズムが性的描写すること自体が禁忌と言えます。

では、何故ツイフェミはそれができてしまったのか?それはツイフェミが女性の自己選択権や社会的地位の向上より、男性嫌悪が先に立っているからと私は考えます。

 

件の温泉の広告はhttps://onsen-musume.jp/これです。

私は主観的には、どこが過度な性的描写か全く分かりません。制服を連想させることでしょうか?私は全くアニメとか観ないので、ちょっと聞いてみたいところです。

とにかくも、ツイフェミはこれを過度な性的描写だと捉えました。もちろんその評価も主観ではあります。

ツイフェミは自身の主観を前提に他者を猛烈に批判したということですから、自身の主観を客観だと信じて疑っていない状態と言えます。いわゆる、「私の周りみんな言ってるから、絶対そう」て奴ですね。

さて、過度に性的な描写というのは、客観的にどのように判断されるのでしょうか?

私はこの前、あるグラビアアイドルのファンになりました。私は彼女のグラビアが過度に性的だとは思っていません。しかし、大多数の、特にこれから売れようというグラビアアイドルたちのグラビアには、過度に性的だと感じます。この違いは完全に私の感覚の問題で、主観でしかありません。もし、私がツイフェミだったとしても、私の独断と偏見で批判する気にはなれません。因みに、どちらも、法的には、乳首や性器を露出しているわけではないので、過度に性的とはいえません。

ましてや、この件の「女性」はアニメであり、性的なポーズで男性を誘うようなシーンがメインとも思えません。何故、これらを過度に性的な描写と判断でき、他者の内心に介入できるのでしょうか?それはツイフェミが個人主義でなく、また個人としての意識もないからです。

個人として意識があれば、例えば私のように他者へ自身の主観を押し付けることに躊躇しますし、そもそも自身の感覚や考えが主観であると認識しています。自身の主観がさも客観であるかのように振る舞えるのは、ネトウヨを思わせる倒錯ぶりで、個人としての意識がないということになります。個人としての意識がなければ、個人主義になりようがありません。

 

フェミニズムは西洋近代の大前提である自己選択権と個人主義という理念をベースに女性の自己選択権を守り、社会的地位の向上を目標とするものです。

自分たちの主観的な見解を正義として、他者を批判し、男性を毛嫌いするための物では決してありません。

 

私が考える、複雑化した現代のフェミニズム

確かに日本では、女性の社会進出はまだまだ遅れている部分があります。会社役員に就く女性は非常に少なく、専門職はやや給与が少なく、ホワイトカラーとしては主戦力と扱われるのが難しく、法律が女性の出産に協力的とは言えず、女性に家庭内の責任を押し付ける前提がまだまだあります。

しかしながら、現在の日本は第三次産業が大きな比率を占めるようになり、格差は拡大し、個人の趣向は多様化し、少なくとも若年者は他者の趣向を批判することはなくなり、ほとんどの既婚者は共働きになります。

これが意味することは、高い社会的地位を求める女性ほどフェミニズムが必要であるが、社会的地位をそれほど求めず、また若い人ほど、フェミニズムは実現化しつつあるということです。

若年層ほどLGBTに寛容ですが、フェミニズムにシンパシーを持っていないのはここにあると思っています。つまり、事実上ほぼ男女平等、ともすればロワーミドルの男性は結婚できないような若年層の状況で、若年層からすれば、フェミニズムを殊更主張する人は上級国民の特権が欲しいか八つ当たり気味の発狂を繰り返すツイフェミでしかないということです。

日本のフェミニズムはほとんどの人が就職でき、少数派をあまり考慮に入れなくてよく、家庭内の役割が単一化している時代に適応してきました。しかし、現代はもはやそのような時代ではありません。新自由主義は社会経済に浸透し、中間団体は弱り、価値観は多様化し、格差は拡大する一方で、階層性によってライフスタイルが全く違う時代になっています。

フェミニズムが現代に適応できていないことを如実に表すのが、弱者男性の扱いです。彼らは明らかに社会の被害者です。彼らが何かに憤り、自己破壊的になるのは自然現象とすら思えます。しかし、フェミニズム概念で言えば、彼らは新自由主義的な社会の弱者でしかなく、彼らの怒りは「インセル」の一言で片付けてられてしまいます。

一方で、専門職の非婚女性をフェミニズムは守ろうとし、体制側も彼らをなんとかしようと思っています。体制側がなんとかしようというのは理解できます。経済的により価値がある人を重視するのが国益だからです。しかし、フェミニズムがそれに乗って、自身の成果とし、現にある弱者を「男性」で「自由競争に敗れた」からと捨て置き、見てみないフリをし、ともすれば攻撃の材料にするのは解せません。それは貧困差別に過ぎません。

女性差別を否定する側が公然と貧困差別を行う態度で、市民一般からの理解を得られるでしょうか?実際に、若年層は正当な理由でフェミニストを評価していません。

フェミニズムは女性だけを守るためではありません。名目的には、それが社会全体に資するものだとしていた筈です。支持を得たいならなおのこと、今現在の問題から目を背けず、八つ当たり的行動は慎み、より慎重に行動すべきでしょう。