merlinrivermouth’s diary

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(社会)弱者男性と男性学

私は精神科にかかっていた時があります。問題は精神科医の誤った投薬によって、再起不能になり得たことでした。

その時、精神科医はこう勧めたのです。

「社会復帰をきっぱり諦めろ」

フェミニストが弱者男性に男性学を勧めるのはこれと似ています。

弱者男性が生きづらいのは、男性であるという前に、社会的経済的事情に依るものが大きく、彼らは少なくともミッドミドル以上の男性より、男性性をあまり前に出しません。自信がそこまでないですから。

彼らに「男らしさを捨てろ」と言うのは、彼らに「そのまま経済的恵まれない状態でいろ」と言っているのとあまり大差ないのです。

 

男性が男性故に苦しむことは確かにあり、女性が男性と社会的にも経済的にも対等になり得れば、男性もいわゆる男らしさを捨て、楽に生きる選択肢を得ることができます。そのような経済的、社会的状況ー例えばフランス共和国のようなーでは、男性学というのは大変意義があるものでしょう。

しかしながら、日本のような閾値を超えた経済的格差の拡大とそれに伴う決定的な階層の分断は同じ言葉でも、それを呼びかける対象によって意味が全く違うような状況を作り出しています。

例えば自己責任という言葉は、アッパーミドル以上の階層とミッドミドル以下の階層とでは、言葉は同じでも意味が違います。

男性学という存在も同様です。社会的影響力があり、経済的地位に恵まれている男性に対してならば、それは主張されなければなりません。彼らには男性であることの利益があり、実際に階層性が上がれば上がるほど、男性であることの利益を最大限に利用しようとしております。しかし、ロワーミドル以下の男性には男性であることの利益はなく、つまり男性の利益を行使する選択肢はありません。彼らに男性学を勧めても、彼らは改めて自分たちが負け組だと思い知るだけです。

日本は紛れもなく、男性が有利な社会です。しかしながら、それはあくまで、上位の階層にある人々だけです。下位の男性は棄民されかかっており、彼らに男性であることの利益などありません。彼らに当事者でない誰かが「男性であることを捨てよ」と主張しても、何を今更と思われるでしょうし、いらぬ説教されているようにも思われるでしょう。

 

弱者男性には自身の社会的な男性性をどうするのか?という選択肢がありません。しかし、ミッドミドル以上の女性には社会的な女性という立場をどうするのか?という選択肢があります。

日本ではミッドミドル以上の女性は女性という立場を捨てずにキャリアアップすることが難しく、それは確かに大きな問題でしょう。ミッドミドル以上の女性は女性として生き、経済的な地位をある程度諦めるか否かの選択肢を迫られています。

弱者男性は社会的な男性の役割を捨てたところで、何か大きな変化があるわけでもありません。せいぜい「俺は結婚できなかったんじゃない、結婚しなかったんだ」というような発想の転換或いは誤魔化しができるようになる程度です。

弱者男性が社会的な男性という役割をやめれば、アッパーミドル以上のキャリアウーマンと結ばれるというのであれば、ミッドミドル以上の女性の選択肢と対等になるでしょう。しかしながら、アッパーミドル以上の女性のほとんど全ては、弱者男性のことを歯牙にも掛けていません。学がないからと対等に会話する相手にならないと決めつけていますし、そもそも経済的地位が釣り合わないと考えているからです。

このような状況で、弱者男性に男性学を勧めても、余計なお世話以上のものになりません。彼らには選択肢がないんですから。

 

私は個人的な感覚ですが、いわゆる弱者男性はあまり男性的ではありません。ほとんどがオタクで、つるむ仲間は男性で、匿名ネットではともかく社会では優しく気弱な人たちです。彼らは選択肢がない中で、環境に適応し、ごく自然に男性性を捨て去りつつあるのです。

方や、アッパーミドルの自称フェミニストの男性の中には、男性性を強く押し出している人々がいます。彼らにとってフェミニズムは自身の男性性を主張する手段でしかありません。しかし、フェミニストの女性、特に古参でないフェミニストは彼らの危険性についてあまりにナイーブに過ぎます。

彼らがーもしかしたら私もそれに入るかもしれませんがー女性に優しいということは女性を対等に見ていないという可能性がありますです。もし、女性と男性を「対等に」見ているならば、フェミニスト男性としての態度は弱者男性にかなり配慮しなければなりませんし、フェミニズムを女性にモテるための手段にはしません。しかし自称フェミニストの男性の中には、弱者男性に非常に横柄かつ傲慢で、フェミニズムをモテるための手段としている人が多く見受けられます。これは、非常に強度な男性性の証明です。

私は最近のフェミニストが彼らに説教や注意をしたことを見たことがありません。それどころか、フェミニズムを理解しているが故に、男性としては弱者男性に配慮する必要があると主張する私を「インセル」扱いしましまた。女性のフェミニストインセルつまり男性のモテを高く評価するという状況は極めて問題がある言わざるをえません。

現実的に男性学に近い弱者男性より、フェミニズムを利用しているだけの非常に男性性が強い男性をモテるということでフェミニストが評価している状況で、フェミニズム側が弱者男性に「男性学」を唱えたところで、説得力などありようはずがありません。

 

女性の社会的地位が上昇しているのは、フェミニストの長年の努力により、社会が受容しつつあるからです。フェミニストが社会に強制したからではありません。あくまで、主体は社会です。

男性の社会的役割を放棄しても良いという思想を、ただ声高に唱えても、そこに何らかの利益がなければ社会は動きません。

例えば、女性の社会的地位を上昇することを社会が受容しつつあるのは、能力が高い人を労働力として確保し、また潜在的な消費者を増やすことができるからです。もし、キャリアウーマンとパートナーになった男性が自身のキャリアを維持できる状況で、パートナーと対等に接することができるならば、社会や体制とすれば、階層を再生産し、消費を持続可能になります。

ですが、アッパーミドル以上の男性は必ずしも同一階層の女性を選びません。経済的に余裕があるため、選択肢があるからです。ミッドミドル、ロワーミドルの女性は同一階層の婚姻にこだわりません。にも関わらず、キャリアウーマンは同一階層以上の男性にこだわります。教養や経済的な階層が似たようなものでなければ、対等になり得ないと考えているからです。

キャリアウーマンはキャリアを捨てたくないので、家庭の問題について、自分以上に気にかけてくれる男性を探します。しかし、同時に、教養や経済的階層が似ていなければ関係を構築できないとも思っているので、アッパーミドル以上の男性から探すことになります。アッパーミドル以上の男性は男性的であるということに選択肢があり、女性を選ぶことについても必ずしもキャリアウーマンを選ぶ必要はありません。

確かに、日本は家庭への支援は弱く、女性に家庭について負担を押しつける文化で、女性が結婚しながらキャリアを積み重ねるのは難しい国です。しかしながら、金ではなくキャリアが大事ならば、男性を強く主張できない、そもそも経済的にパートナーに依存せざるを得ないが故に家庭の面倒を見ざるえないだろう弱者男性に見向きもしません。学や教養などの違いは、密なコミュニケーションでは解決不能というのでしょうか?

弱者男性が弱者男性であるのは、自己責任ではありません。選択肢など彼らにはほとんどありません。もし彼らに自身の仕事で忙しく、男性に家庭の面倒を見てほしいという女性へのチャンネルがあれば、彼らは男性学を真剣に実践するようになるでしょう。

しかし、現実には、キャリアウーマンは弱者男性をパートナーにするくらいなら、孤独でいいと考えています。そのような社会状況で、弱者男性に男性学を説いてみても説得力などありません。弱者男性に「男性性を捨てないから辛いんだ」と言っても、とうの昔にほとんど捨て去っているうえ、それを実践したところで現実的な利益なんてないからです。そもそも彼らへのチャンネルは閉ざされぱなしなんです。

弱者男性は男性学を主張されるまでもなく、徐々に男性性を捨て去りつつあります。男性学はキャリアウーマンの階層を再生産させるということが実証されれば、社会に受容されるでしょう。しかし、現実に男性学を受容できる余地がある男性の階層である弱者男性をキャリアウーマンは選択しません。結果、日本では、男性学は使い道がないわけです。これは弱者男性側の責任でしょうか?

 

弱者男性にとって、男性学というのは形而上の課題であり、形而下の課題ではありません。社会的、経済的利得がないからです。

彼らは環境に適応し、男性性を諦めつつありますが、男性学について拒絶反応を起こします。

フェミニストはそれを弱者男性が男性性が強いからだと誤解しています。しかし女性の影が薄い男性たちが男性であることを維持する必要はありませんし、実際に彼らのカルチャーは女性的です。

オタク文化は一見すると男性的に思えます。しかしオタクの行動様式は概ね女性的です。女性が不在であるため、女性を理想化し、現実、自身が女性的な側面を有していくようになります。男性的である必要はあまりありません。

つまり、弱者男性が男性学に拒絶反応を示すのは、弱者男性の男性に理由があるのではないように考えます。むしろ逆に彼らが男性学にあるようなことを言われるまでもなく、実践「せざるをえない」からだと考えます。

さながら、キャリアウーマンが男性に「お前が出世するためには、女性を捨てろ」と言われているようなことです。

彼らは男性であることをやめたくはないでしょう。ミッドミドル以上の男性のように男性らしさを捨てずに生きたかったはずです。しかし選択肢がありませんでした。しかもそれは前向きに出世できるからではなく、生存と心の安定のためです。

そのような人たちに階層に接点がない人々が「男性らしさを捨てれば楽になれる」と言えば、彼らは非常に頭に来るでしょう。

「俺たちの苦労も知らないお前が、俺の努力も知らずに、上から目線で好き勝手言ってんじゃねえ」てね。

キャリアウーマンに男性が「お前が出世するためには女を捨てろ」と言っているのと、固有名詞を変えれば、全く同じです。

弱者男性には選択肢がありません。選択肢を閉ざしているのは、なんだかんだで女性側です。ならば、彼らには男性学を説くのはやめなければなりません。

男性学を唱えるべき相手はアッパーミドル以上の男性です。