merlinrivermouth’s diary

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(日記)Closer サイトウケイスケさんの個展

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芸術作品はパズルだ。何かを訴えたい情熱がなければ、作品を作ることもない。観る側や聴く側が作品内の情熱を読み解ければ、心を揺り動かされる。

小説であれ、詩であれ、音楽であれ、映画やドラマ、演劇、そして絵画も、およそ表現媒体とされるものは、多かれ少なかれ、単刀直入に説明し得ない主張を別の方法で表明する表現手法である。

である以上、およそ全ての芸術作品には物語がある。小説、詩、音楽、映画、ドラマ、演劇、絵画は表現としては平面であるが、主張や背景となる物語は四次元だと言える。

見てくれが美しいというのは、ポピュラー化するための要素である。だが、芸術としては主張したい四次元の物語ないし主張が伝わりやすく、かつ説得力があることが評価対象になる。

ポピュラー化を捨てることはできない。作者の物語や主張が強いのであれば、より多くの人に届けたい筈だからだ。閉鎖的なサークルで通じればいいという物語や主張は大して強くはない。強くない物語や主張に大きな意義などない。芸術は可能な限り、普遍を目指すべきだと僕は思う。

だが、ポピュラー化を目指せば、表現や技巧を突き詰めない限り、物語が安っぽくなる。主張や物語が簡潔であればあるほど、表現の技巧に頼らなくていい。技巧に頼らなければいいのであれば、マーケットをより意識できるようになる。

芸術とポピュラー化の両立は適切な妥協とバランス、高度な技巧によって成立している。そしてそれは決して主張やバランスを捨てたということではない。強い主張や物語が込められた作品がポピュラー性をも獲得しているのは、偉大なことだ。

 

作品を観たり、聴いたりする人の中には作品の見方を知らない人もいる。作品には必ず主張ないし物語があり、作者が伝えたいのはまさにそれで、それを伝えたいからこそ、作品が成立する。

芸術はスポーツではない。見た目に美しい、技巧的だ、変わっている、オシャレ、人気があるというのは表面的な事象でしかない。

作品に感動し得るのは、その作品の主張や物語を理解し、共感した時、即ち説得された時だ。しかし、観る側聴く側にその用意や意図がなければ、理解しようもなく、従って共感や説得もない。そして客の態度は作者にはどうしようもないことである。

だから、観る側聴く側の僕が前提として、観る側聴く側にこれを説明しなければならない。

作品には必ず主張ないし物語があり、それに共感できるまでがゴールであり、醍醐味でもあるのだから、じっくり観察したり、聴いたりして、色々考えて、パズルを解いた方が絶対面白いすよ、と。

 

https://www.gankagarou.com/show-item/202201saitokeisuke/

僕がサイトウケイスケさんの個展に行ったのは、歯の治療のついででした。みなさん、歯磨きだけでなく、フロスも忘れてはなりません。さもないとベットに据え付けられて、好き勝手やられることになります。そういう趣味の話をしているのではない。

…麻酔をしたので、30分ほど飲食禁止状態でした。そこで、僕がファンをしている相原美咲さんがこの個展をおすすめしていたので、近いし、行ってみようとなりました。彼女のSNS見ると、芸術に対して知識と眼力があるので、あまり表に出さないけれど、相当な教養があるんだろうと思います。僕なんかほぼ知識ないすから。なんでも才能で突破しようとするきらいがある、サボり魔です。頭を使うのが好きなのではない。暗記とか調べ物がきらいなだけだ。

…前提知識ゼロだったので、絵の前に10分座っても、なんでこうなのかパズルが解けませんでした。良い子の皆さんはテスト前に勉強することを忘れないようにしましょう。地道な努力こそが真の価値です!才能で突破しようとすると僕みたいに「ずいまぜん!わがんないです!!」と作者本人に助け舟求める羽目になります。

サイトウケイスケさんは親切な人だったので、作品の背景を教えてくれました。いやーポーランドのとある大作家なんて、やりとりしてる側がポーランド語できねーつってんのにポーランド語で返信してきて、「王族に使う、最大級の敬語を使え」とか言ってきますから。うちの先生が被害者です。ありがとう!サイトウケイスケさん!

サイトウケイスケさんの作品の多くはオタクとその媒体との関係性を表現したものです。すげーアイロニカルでした。ただオタクやその媒体の、ガッツリ当事者だったなら、僕なら気が気でなくなります。

サイトウケイスケさんは自らオタクと言ってましたし、メタル好きだと言っていたので、「この人、自虐ネタが好きに違いない。さてはマキシマム・ザ・ホルモン好きだな?きっと同類というか同根だ!」とか勝手なアホな推測をしましたが、聞くの忘れました。

僕が最も気に入った作品はサイトウケイスケさんがオタクとその媒体を描くようになる前の作品です。

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僕は最初全然わかんなくて、ずっーと座って観察してました。予習しないとこうなるんですが、「一人でできるもん!」とかいうイミフな意地の張り合いの競争を脳内でやってましたね。結局、答え聞いちゃったんすけど笑

サイトウケイスケさんは福島の震災即ち東北大震災を経験しています。これはそれ以前とそれ以後の世界観を表現しています。

僕はサイトウケイスケさん本人には聞けませんでしたし、これはあくまで一般論です。

日本人の偏見、日本政府と東京電力との補償の争い、国の建前と本音…福島の方々は、震災以前は体制側として、世間サイドとして存在でき、何の疑念もなく、自民党を支持できるような一般的な日本人だったでしょう。しかし、実際にことが起きたあと、体制側が行ったのは切り捨てでした。日本政府と東電の不誠実な対応はほぼ自民党一択だった地方の人にとって衝撃的で、体制側すなわち世間サイドから梯子を外されそうな状況はこれまでの日本社会や日本人観が揺らいだ出来事だったと思われます。

これまで明白だった見方が急にあやふやになる。それを表現した作品です。

誰しも、それまで疑わずに信じてこれたものが急に信じられなくなり、物事が曖昧になる時を一度は経験しているとは思います。まさにこの作品はそれを表現していて、「すげ〜」と感じました。

自分の新しいパラダイムは自分で作らねばなりません。

 

そんなこんなで、サイトウケイスケさんとは仲良くなりました☆

 

 

(社会)いじめは日本人の持病

去年の二月、新しい美容師が僕の担当になりました。元気な人で、すごく純粋で、嘘をつけず、困ってる人をほっとけない人でした。

僕は好感を持ちましたし、何故だかわからないですが、彼女も僕に好意を持ってくれました。

僕は彼女に僕の特殊な事情を話せましたし、彼女はシンプルに「じゃあしゃーないすね」と認めてくれました。

僕がフラれた時、お互いに好みのタイプとかデートプランとか話したりして。彼女がサバ読んだ時は可愛くて仕方なかった。

彼女がやってくれたシャンプーとトリートメントの感覚も思い出されます。

僕はしばらく後、彼女をデートに誘い、LINEを交換しましたが、緊急事態になってしまいました。彼女も忙しかったですし。

彼女は僕が出歩いていることを気にして、「本当に一人で出歩いてるんですか?」と何度も聞いてくれて、僕は嬉しかった。

彼女は単刀直入で、純朴でしたから、「前に好きな人をどう思ってるんですか?」「困っている人がいたらどうするんですか?」とか色々聞いてきてくれて、僕は好意を持ってる人からボールを返されて、あったかい気持ちになりました。

僕が彼女にまだ肝臓の健康状態の都合が悪くて、ひき肉食べれないことを伝えると、彼女は「じゃあ、彼女がハンバーグ作ったらどうするんですか?」と言ったので、「…食べ…ます」というと、「優しい」と。彼女のハンバーグを食べる覚悟を決めましたよ。

彼女が美容院の階段から転けて、怪我をした時、僕はワインを持って行きました。僕の過去の担当の人たちも同じ階段で転けて、その後1か月で辞めていたので、彼女がいなくなってしまうような気がしたのです。

僕のLINEに彼女がお気に入りにしてくれた通知が入って、僕はすぐにメッセージ打って、次に美容院に行った時にデートの具体的なことを決める約束をしました。

昼に彼女から「予約して下さい」とメッセージが来たので、すぐに美容院に電話しました。ところが美容院は彼女が解雇されたと。どう考えてもおかしいでしょ?

もう一度、美容院に電話したら、彼女が解雇されるまで彼女はもう来ないとか、彼女は予約が一杯とかめちゃくちゃな返答でした。

彼女のLINEにメッセージ打っても、既読にすらならず、それきりでした。

結局、1週間後、他の美容院に行った時、担当の美容師から彼女がいじめを受けていたことを示唆されました。

僕は彼女から連絡がなくとも、行動しました。僕も困ってる人を見過ごせない人間だからです。

僕は怪しいところを報告書にしたため、東京都に公益通報しました。

その美容院は全国規模の大美容院でしたが、都税事務所から二億円の追徴課税を受けました。現在、国税庁と警察が捜査しており、脱税額は数億、彼女やその他へのスタッフへの暴行やパワハラで捜査されています。確実に潰れるでしょう。

それから半年後、現在彼女が勤めている美容院を見つけて、電話しました。ですが、彼女は電話を切ってしまい、他のスタッフが彼女が前の勤め先のことを思い出したくもないと言っていると伝えてくれました。

僕は僕自身のためにも、友人や知人のためにも、二の轍を踏むつもりはありません。

どうか、困っていることがあれば僕に相談してください。

どうかSOSを下さい。

どうか僕に選択肢を下さい。

僕はクソッタレな日本人のビョーキで不幸になる人を見たくない。

 

日本人にとってのいじめ

日本人にとっていじめは欠くことのできない文化です。日本人にとって世間は社会であり、社会とは中間団体であり、中間団体とは同族の集まりを意味します。

同族である以上、同族として認められる条件が必要です。似たようなファッション、似たような職種、似たような能力、似たような教養、似たような経済力、似たような育ち…これらの条件に当てはまらなければ、中間団体に入れず、迫害して、追放します。

構成員に周囲と似たような見た目や言動を求めることを同調圧力と言い、いじめの温床となっています。これらの同調圧力に屈しない人には、中間団体のメンバーは同調圧力を強め、しまいには事実や真実に全く無関係な中傷や暴力によって、強制しようとします。

しかしながら、同調圧力をかける者に加害意識はなく、むしろ被害者意識があります。彼らにとって、同調圧力はそれをされている者に選択肢を与えているつもりであり、それに従わない者を矯正する教育だと認識しているからです。と同時に、彼らは非合理的な同調圧力によってそれらを行なっているため、自分たちが同調圧力をやらされているとも感じ、好きでしているわけではないと認識しています。彼らが同調圧力に反対すれば、彼らが同調圧力による矯正の対象になります。

つまり、中間団体の構成員にとって、同調圧力とは有無を言わせぬ正義であり、いじめという自覚がなく、事実とか真実とか合理性とか論理性とか全く無関係であり、ゆえに加害行為でなく、それをやらされる自分たちが被害者であるという認識です。

これらの事象は富裕層や専門職を除くほとんどの日本人に適用され、つまりほとんどの日本人は常にいじめの被害に遭う危険性と緊張感の中で生活することになります。

日本における学校教育とは、このような日本社会に生徒を慣れさせるためのもので、即ちいじめは学校に必要だという主張につながります。

究極的には、奇特な人や社会のアウトサイダー以外の日本人はいじめの加害者なのです。

 

現在、経済力の違いは圧倒的かつ決定的であるため、資産があったり、教養があったり、上品だったり、礼儀正しくあったりすれば、呪詛の的になり、いじめられるケースが増大します。そのような人はその属性を隠蔽するか、もっと上の階層の中間団体に属さねばなりません。

いじめられるには色々理由があるように思われますが、実はそこにはほとんど理由がありません。いじめられる人と似たような原因を抱えている人が全く非難されないことはザラです。

現実にいじめられる理由は階層性の違いです。いまやアッパーミドル以上とそれ以下では、経済力の違いが圧倒的であり、受けられる教育や文化も違います。礼儀作法や仕草、言葉遣いや態度、教養や能力、これら全てが違ってきてしまいます。結果、ある中間団体に相応しくない経済力(高くても、低くてもダメです)である場合、どんなにいい人でもいじめの対象です。

 

日本人にとって同調圧力が正義である以上、マウント合戦は必要悪です。何故ならば、ある中間団体で迫害されそうになっても、自身の階層性がその中間団体の構成員より上である場合、中間団体の同調圧力が陳腐化するからです。

日本社会は無数の中間団体のレイヤーによって構成され、中間団体は権威主義ヒエラルキーによって成立しています。故に下の中間団体が上の中間団体に文句を言うことは単に負け惜しみでしかないことになります。

玉の輿になりそうな人がいじめの対象になるのもこれが原因です。経済力が違う人になる可能性がある人はその人が所属する中間団体に馴染みませんから、玉の輿をやめさせようとしたり、追い出そうとしたりする訳です。僕が恋をしていた美容師さんがいじめられたのは、僕と交際可能だったことも原因の一つだったのでしょう。

日本社会において、上部構造に文句をつける資格がある下部構造は反世間、反中間団体である左翼であり、故に下部構造の日本人は上級国民に呪詛を吐きながらも、選挙には行かないのです。

 

自然な結末として、専門職や富裕層、アッパーミドルや資産家は下部構造の中間団体構成員を見下します。同調圧力が正義であり、マウント合戦が必要悪だと、下部構造の中間団体構成員が認識している以上、より強者の側が弱者を卑下しても、弱者側は反論できないからです。

もし、そのような弱肉強食の論理に適応的な人ならば、自身の所属する中間団体が気に入らなければ、更に上を目指せばいいだけになります。そして、往々にして、いじめの原因は経済力や能力があることなので、より上の階層に所属することは単に適正な中間団体に移動しただけになります。

しかし、経済力があったり教養や能力がある人は中間団体と親和性がないだけでなく、人道主義的であるため、マウント合戦の勝者の中間団体に必ずしも適合的ではありません。

結果、どんなに経済力があっても、まともな人は社会のアウトサイダーになりがちになります。

 

能力のある人を省くのが中間団体の機能である以上、中間団体の構成員はすべからく無個性で、クリエイティブではなく、主体的な能力はありません。昔からサラリーマンをロボットのように評価する言説がありますが、それは正しいわけです。

どんなに個性的な格好をしたところで、中間団体の構成員であれば有能ではあり得ません。

 

いじめへの対抗策

いじめは日本人の宿痾であり、持病です。世間や中間団体に必要な文化だからです。しかし、法律は中間団体を否定する近代理念のものであるため、行き過ぎたいじめや経済的損害を与えた同調圧力は違法になります。

しかも、日本人は自身がいじめの加害者であるにもかかわらず、いじめを否定し、いじめを行う者をいじめる傾向にあります。

法的にいじめを認定されてしまった加害者は社会的に非常にまずい立場に立たされます。

故に法律を使う、つまり弁護士などの法曹に頼ることは中間団体の構成員と仲良くしたいのでなければ、いじめをほぼ無効化できます。

しかし日本人にとっていじめがなくてはならない文化である以上、法律以外の対抗策は考えにくくなってしまいます。

他の中間団体へ移籍する程度のことしか考えられません。

 

まとめ

僕は日本人を信用していません。大なり小なり中間団体に所属しているか上部構造の一員として下部構造を見下すような人ばかりだからです。

僕は挫折して苦労した以上に資産家であり、にも関わらずかなりヒューマンです。ですので、僕に適合する中間団体はほぼ皆無です。結果、僕は上部構造の一員でありながら、日本社会からのアウトサイダーです。

ですので、僕がフレンドシップを築ける人は非常に少ないでしょう。

逆説的には、僕は日本人社会で困っている人を助ける能力と資格があります。

 

(日記)自分の言葉を大事にしよう

今日はラジオの収録を観に行きました。今日は休日でもあったので、ラジオの収録まで時間があり、新宿の占いまで行きました。

占いには3日前に行ったばかりなんですが、暇で暇で。

占う内容なんてほとんどないんで、「我々、マキシマム・ザ・ホルモンとかムロツヨシとか好きな集団は少数派だ」とか「ハサウェイが自虐ネタ喋ってたら…」とか「元カノの名前を愛機につけるのと、自虐ネタで笑わせて俺カッコいいというのと、ナルシズムという点で大して変わらない」とか、真面目にくだらないことを議論してました。くだらなくも、真面目なことを議論してたのかもしれませんが。

で、それでも時間空いたんで、エクセルシオールに寄ったんです。これはその時の話です。

 

新宿のエクセルシオールは奥まったところにあるので、穴場なのか、作業する連中がたむろしてます。新宿は芸能関係の連中がたむろする場所らしく、エクセルシオールにはそれらしき連中がいました。

イヤホンつけて、すっげーうっせぇ声で電話してる若者もそれらしく見えました。僕は分析屋という側面もあるので、職業病という言い訳の下、聞き耳立てました。つーか、うっせぇ。

男「〇〇くんは隠キャ?」

男「何言いたいかわかんない。隠キャね」

俺が〇〇くんならキレますね。

男「それなら、こう書けばいい。つーか、インスタは最高だな」

男「那覇の人にはアパレル売れた」

男「どこの口座?何回かに分ければいい」

男「××ちゃんの書き方だとどう伝わってるかわからない。こう書けばいい」

なるほど。こいつは芸能関係者かなんらかのショップ開いている事業主に脱税とかマーケティングとか指南しているわけです。

コンサルという奴です。同業ですね。

 

SNSというのは広告代わりとして便利です。特に小さな事業主にとってはタダで宣伝できるうえ、カスタマーと密に連絡とれるので、客を繋ぎ止めることができます。商品やショップのイメージを伝えやすいので、写真や言葉は重要でしょう。

自分を売り込むのが苦手な事業者が誰かの助けを借りたい気持ちも十分にわかります。

ですが、自分もしくはショップを経営しているのは自分であり、助言者ではありません。ショップのイメージ戦略の主導権を助言者に握られると、助言者なしで経営できなくなります。

逆に助言者が主導権を握ると支配的なりますが、同時に助言者は無責任でいられますから、助言者は好きな勝手な、自己都合な方針や計画を自分やショップに実行します。気付けば、コンサルに利用されるだけ利用される事態に陥ります。

よくわからないからと言いなりになるのは良くありません。

また、コンサルティングというのは、あくまで助言者であり、決定権を持ってはいけません。他者または他社の自己決定権を阻害してはいけません。自らが不当に決定プロセスに介入して、失敗した場合、誰が責任とれるというのでしょう?

クライアントが煮え切らないまたは決断できなくとも、慎重に、辛抱強く、クライアントの決断を待つべきです。クライアントの責任はクライアントにしかできません。

あのコンサルは、しかし、僕とは逆の価値観です。彼は無責任で、自己都合で、支配的なコンサルティングです。ほとんど詐欺です。

 

コンサルと言えば難しく聞こえるかもしれません。

しかし、友人が不得手な分野があって、その助言を求められた場合、なんでも好き勝手に言って、どうなろうが俺は知らねーなんて態度はとらないでしょう?

 

僕はあのコンサルを人間的にクソでカスと判定しました。

うぜぇんだよ、クソカスコンサルが。

てめーの傲慢不遜な自己中勘違い調子こいた態度が他人を不幸にすんだよ。

いっぺん自分の姿、鏡で見てこい。

ものの見事にピエロが映ってるぜ。

 

 

 

 

 

(日記)金で心は買えないよ

なんか、カッコいいこと言ってみたくなっただけの日記です。

 

2ヶ月前、探偵事務所の広告が入っていました。

別れさせ屋、復縁工作、結ばれ屋て奴です。

顧客が探偵事務所に着手金数十万円を払い、探偵事務所は色々な工作を顧客が狙っている相手やそのパートナーに仕向けるわけです。

探偵事務所は対象の SNSなどの情報を調べあげ、運命的な出会いを演出したり、対象が好意を寄せてる相手に対象への不誠実な行動などをけしかけたりして、場面を演出したりするわけです。

 

僕は非常に好奇心旺盛なので、ちょっと気になる赤の他人が投稿してる写真やコメントを読んで、色々考えたりします。趣味悪いのは自覚してますが、職業病みたいなところもあるようなないような。

ザ新興富裕層的男性のインスタというのは、港区の高級串焼き屋や焼肉屋、旅行先の写真、白いベンツ、ホテルのベッドルーム…何をして遊んでるのか明白で、むしろそういうことをアピールしていたりします。

彼らはそのような生活様式で美男美女とお付き合いしているのでしょう。パパ活とかでね。

僕の行きつけの占い師や女友達は言っています。

「あいつらてさー勘違いしてんの?」

インスタ見る限り、勘違いしてるんでしょうね。

そういう輩が探偵事務所で、イカれた工作を無駄に大枚叩いて頼むのでしょう。

 

彼らがそのような着手金を払って、探偵事務所のサービスを利用したとしても、成功するかどうかは結局は本人の詐欺的な能力にかかってます。

探偵事務所は場面を演出するまでしかできませんから、結局対象が本人を好みとしなければ意味がありません。そして、そのようなサービスを利用する以上、ご本人そのものにはあまり魅力がないと思われます。少なくともすげ〜不誠実であるのは確かですからね。ですので、利用者自身かなり演技者でなくてはならないわけです。

また対象もそのような演出に弱い状況や性格でなくてはいけません。対象が慎重な性格だったり、観察眼が優れていたり、対象や対象の身内が有能であれば、空振り終わる公算が高い。

新興富裕層はイカれてますけど、費用対効果にだけは異常にうるさい。無理そうな相手に数十万も払わないでしょう。

探偵事務所の方も失敗を見込んで、着手金を多めに見積もっているでしょうし、顧客との契約に法的リスクは顧客に追従する旨を記載しているでしょうから、顧客側としては可能性がある人にしか工作対象にできません。

ま、馬鹿な選択をする連中が賢明な判断できるとも思えませんが。

 

ロクデナシで定評があるお金持ちが芸能人とかなんとか交際とか結婚とかできるのは、こういう裏があるというわけです。

僕は愚かだと思います。

好きな人にバレるまで、疑われ続け、緊張し続け、交際することになります。

嘘の出会い、偽りの自分、演出された交際…安らぎとか癒しとか幸福とか何処にもない。

何のために交際するのか?

何のために一緒にいるのか?

身体?

金?

心でしょう。

嘘で魂は買えず、金で心は買えません。

心は心でなくては買えません。

たとえ出会いがキャバクラだろうが、風俗だろうが、パパ活だろうが、身体を買えるサービスを利用しても、心を買えるのは心だけです。金が絡んでるぶん、すげ〜ややこしくなって大変でしょうが。

でも、探偵事務所のサービスを使って、金で心買おうとするのは、決定的にまずい選択です。もしかしたら、普通に出会っていれば上手くできたかもしれない交際も、上手くいきません。

…でも、ああいった連中はそういう発想がないんでしょう。でなくては、いかにもな写真をインスタにあげて、自慢しようとはしません。

僕は探偵事務所のこういったサービスは典型的な悪魔の誘惑だと思いました。

 

探偵事務所のこれらの活動は恩師曰く偽計業務妨害らしいです。

それは、目標とする対象や別れさせられる対象でなくとも、刑事告訴可能らしいです。

ですので、恩師は僕に言いました。

「だから、例えば、もし対象の周りに川口くんみたいなのがいたら、探偵事務所は仕事を引き受けないだろうね」

「川口くんはおかしな動きに鋭敏に気付くうえ、法律を使うことに躊躇はなく、大手美容院の例で分かる通り、非違行為の追及の手を緩めることはない」

川口くんみたいなのが周りにいる人自体少ないと思いますけどね。

僕は誰かの力を使って出会いを演出したり、誰かを別れさせたり、自分を偽ったり、誰かを不幸にさせたり、絶対にしません。

誠実さの価値は誰よりもわかってます。

「自分で」好きな人の行動や状況によく気付いて、「自分で考えて」好きな人に最適な行動をとることに価値があり、その後の関係を決定的付ける意味があるんです。

刹那の中に快楽はあっても、幸福はありません。

幸せてのは、誠実な行動の積み重ねで成り立ってんだと、僕は信じています。

 

 

(レビュー)オオカミの皮をまとう男

Netflixオリジナル映画です。

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あらすじをあらすじ

たぶん20世紀初頭。

山奥の限界集落の唯一の住民の主人公はハンターで生計を立て、基本的に自給自足の生活をしていました。皮は必需品であり、かつ高価で、猟を誰もやりたがらないため、貧乏ではありません。しかし、ハンターという職業や山奥で孤独に暮らしていることは偏見と差別の対象でした。

主人公は偏見や差別にうんざりしていたので、半ば人間関係を諦めており、結婚を勧められても断ってました。しかし、水車小屋で女性となんとなくそういう関係になって、希望を感じました。

なんとなくそういう関係になった女性の親は皮の代金の代わりに彼女を主人公に嫁がせました。

主人公は人との関わり方がよくわかっていないだけで、子供の狼を見逃すほど性根が優しい男なので、不器用ながらも身売りされた彼女を愛していましたが、彼女にはあんまり伝わっていない様子でした。

主人公のお嫁さんは病気になり、主人公は必死で看病しますが、死産し、彼女も死んでしまいます。主人公は彼女とその子供を埋葬しますが、彼女が病気もちで、自分に嫁ぐ前から妊娠していたことに気付き、腹を立てます。

主人公は彼女の父親を問い詰め、彼女が未亡人で、にも関わらず懐妊していたことや病気を抱えていたことを白状しました。彼女の父親は主人公を差別していたので、裏切り行為に問題を感じなかったのです。

主人公は「お前を愛していた娘を死なせたのはお前だ」と父親を責め、「春に皮の代金をとりにくる」と告げました。

春、主人公は父親のところに行き、皮の代金を求めますが、父親が代金として用意したのは末娘でした。主人公は家族を持つことについて諦めきれなくなっていたため、了承してしまいました。

父親は末娘に毒を与え、耐えきれなければ主人公に使うように告げました。

主人公は二番目のお嫁さんに、これまた不器用ながらも優しく接しようとしましたが、お嫁さんの方はとにかく文明と隔絶した孤独な生活や好きでもない男と身体の関係を持つこと、そして何より差別感情から、主人公の優しさを感じることができませんでした。また主人公は主人公で、コミュニケーションがとれませんでした。

彼女は懐妊しますが、ついに生活に耐えられず、主人公に毒を盛り、意気揚々と下山しようとしますが、道に迷い、狼用の罠にはまってしまいます。しかも冬でしたので、一晩開けて、意識不明になりました。

主人公は彼女を探し出し、これまた一生懸命に看病しました。彼女は意識が戻りましたが、主人公は彼女が生活に耐えきれないことを慮り、彼女に離縁することを告げました。

主人公は健康が回復しないので、何かおかしいことに気付き、ハーブティーの中身を確認したところ、自分が毒を盛られていたことを知ってしまいました。

主人公は人間に絶望し、毒を飲んで、ベッドに横たわり、狼に自分の身を任せたのでした。

終わり。

 

私的解釈

スペインは西欧ではありません。個人主義を基調とした市民による西欧近代の社会ではないということです。日本ほどでないにせよ、世間があり、少数派に対する偏見と差別が根強いです。

社会から孤立または脱落してしまった人がどれほど絶望的な状況であるかを、具体的な比喩を用いて表現しています。

我々日本人はスペインよりも顕著に非世間存在について顕著な態度を示しますし、しかもスペインよりも非世間存在を多数作り出しています。日本人において、なんらかの挫折をした人はスティグマを持ってます。

世間側に理解されず、受け入れられず、社会から孤立とは物理的な意味ではなく、精神的な意味でもあることを示す映画でした。

非常に上手く表現されています。世間側の人間も世間の非人道性を認識せざるを得ないでしょう。

 

感想

非世間存在は世間側と人間的な接点を持てば、不幸を呼びます。

僕も非世間存在です。ですので他人事のようには感じられませんでした。しかし、日本はスペインよりも極端な世間があり、しかも世間が明示化されていません。つまり、アウトサイダーはかなり存在するので、完全に絶望する必死はないということです。

日本おいて、非世間存在は、自分の身を守る警戒心さえ怠らなければ、絶望的になる必要はない、ということです。勿論、仲間になり得る非世間存在は世間存在と違う意味で危険である可能性があり、基本的に世間を頼れませんから、常に緊張感を持って自分で物事を判断する必要がありますが。

日本の世間は包摂しません。僕がどんなにキャリアを重ねて、社会に必須な人材と評価されても、僕は世間に組み入れられることはありません。例えば物語の主人公が生活を捨てて、町で普通に暮らすても、偏見や差別から自由になることは不可能でしょう。

一度、非世間存在になれば、個人化する以外に生存の道はありません。自己利益を自分で評価し、生活や人生計画について自らの考えを恃み、世間側を信用しないということです。

世間側との婚姻は包摂を求める行為です。物語の主人公の不幸の始まりは二度目の婚姻からです。彼に適切なパートナーは最初の妻即ち、未亡人であり、にも関わらず父親不明の妊娠をしたような、非世間存在でした。

末娘は主人公と婚姻するまでは世間存在であったので、主人公との生活に耐えきれず、主人公に不幸をもたらしました。

僕はこの物語から教訓を得ました。世間側とは表面的な付き合いに留め、個人的な関係は非世間存在で人間性を喪っていない人とだけ行うべし、ということです。

 

 

 

(日記)今年の抱負

僕は最近どうかしてました。

確かに内分泌系が上手く機能していない時期で、情緒不安定であったものの、誰かにあたってもいいことはありません。

原因は僕の責任ではありませんが、結果の責任を負うのは僕です。

世の中は理不尽です。僕は理不尽を看過できない人間です。ですが、僕は多少の自身への理不尽には耐えねばなりません。

僕は特別な存在です。普通の人のように堕落することは許されていません。功業をなし得ねばならないのです。

 

僕の肝臓が内分泌系を正常化させるのは、12月半ばから数えて、2週間から4ヶ月程度だろうとのことです。2ヶ月と計算して、2月の半ばには復調する見込んでいます。

そのデータを基に今年の計画を策定します。

 

東京大学文科三類への受験勉強

僕が功業を為すのは宿命であり、責務です。これはその道に非常に近づく手段であり、最も近道であると言えます。

東大卒業後にアメリカの大学院へ進むので、わざわざ難しい文一とか経済学オンリーの文ニに進む必要はありません。

東大は留学が非常に容易ですから、東大を選んでます。時間はある意味で無限ですので、東大一択です。

使命といえばかっこいいですが、要するに仕事ですね、ほぼ。

 

ボイストレーニング

二月半ばに復調するとのことですか。二月半ばから申し込む予定です。

僕は音程以外、日本の男性ボーカルでは最高レベルです。そして、人はよく嫉妬します。つまり、僕が歌を楽しむためには、最高を目指さなきゃならないということです。

個人的には、ボーカルはほぼスポーツなんで、他のパートの人が嫉妬する必要はゼロですし、オペラとかクラシックとかボーカルなんて色物扱いで、音楽センスなんて全く期待されず、実際スポ根がないと身体を楽器として扱えないんで、正確な評価なんですが、なかなかボーカル以外のミュージシャンや素人は気付かないらしいです。

いや、お前ら、ガチでボイトレ受ければ分かるから。ほぼアスリートだよ。

 

・恋愛

そんなん知るかボケ…自分から探すようなタイプでないことはこの一年で気付きましたし、僕はある程度過去精算しなければ、不安定さが迷惑をかけます。

ので、まず過去にケジメをつけて、まー気長に出会いを待ちますよ。

 

・掃除

過去にケジメと言っても、早い話、肝臓の復調と実家の片付けです。引きこもってた時、家が生活圏の全てだったので、もうヤバいす。

おふくろは相原さんのペットの写真見せたら、犬と猫飼いたくなったらしく、それにはやっぱり片付ける必要があります。

親との問題は事実関係では解決できませんが、内心では許しを与えることができます。許すというか赦免するということですね。

そういう作業を片付けることに仮託して、かたをつけるつもりです。

 

・半年後のマッチングアプリの特許許可

僕は実際の僕と180度逆の属性を疑われる経歴です。ま、会っちまえば逆に警戒されますが。

僕が特許申請中のマッチングアプリが特許になれば、経済的利益や多くの真面目な人々が救われるだけでなく、そういった僕個人の問題もかなり軽減されます。

僕は英雄または半神の気があるので、足を引っ張られるのがデフォルトみたいなところがありますが、もういい加減誤解されるのはウンザリしています。

 

追記

閃光のハサウェイを観て、彼と僕とでは、属性、態度、価値観、能力、才能が極めて酷似していることに気がつきましたが、ある一点、彼と僕とでは180度違いがありました。

彼は現実を諦め、破滅に突き進みますが、僕はどんなに弱音を吐いても、諦めないということです。

彼は自らの不幸に酔って、悲劇を迎えることにカタルシスを感じています。

僕は復讐に酔って、歴史に名を残すことが最大の名誉だと感じています。

彼は自分の愛機に元カノの名前をつけてます。

ガチで引く。

僕が自分の愛機につけるなら、「マキシマム・ザ・セックスマシンガンズ・勇者ヨシヒコガンダム」です。

因みに勇者ヨシヒコはみてくれすげ〜英雄てな奴ですが、スーパームッツリスケベです。

 

 

 

(社会)弱者男性と男性学

私は精神科にかかっていた時があります。問題は精神科医の誤った投薬によって、再起不能になり得たことでした。

その時、精神科医はこう勧めたのです。

「社会復帰をきっぱり諦めろ」

フェミニストが弱者男性に男性学を勧めるのはこれと似ています。

弱者男性が生きづらいのは、男性であるという前に、社会的経済的事情に依るものが大きく、彼らは少なくともミッドミドル以上の男性より、男性性をあまり前に出しません。自信がそこまでないですから。

彼らに「男らしさを捨てろ」と言うのは、彼らに「そのまま経済的恵まれない状態でいろ」と言っているのとあまり大差ないのです。

 

男性が男性故に苦しむことは確かにあり、女性が男性と社会的にも経済的にも対等になり得れば、男性もいわゆる男らしさを捨て、楽に生きる選択肢を得ることができます。そのような経済的、社会的状況ー例えばフランス共和国のようなーでは、男性学というのは大変意義があるものでしょう。

しかしながら、日本のような閾値を超えた経済的格差の拡大とそれに伴う決定的な階層の分断は同じ言葉でも、それを呼びかける対象によって意味が全く違うような状況を作り出しています。

例えば自己責任という言葉は、アッパーミドル以上の階層とミッドミドル以下の階層とでは、言葉は同じでも意味が違います。

男性学という存在も同様です。社会的影響力があり、経済的地位に恵まれている男性に対してならば、それは主張されなければなりません。彼らには男性であることの利益があり、実際に階層性が上がれば上がるほど、男性であることの利益を最大限に利用しようとしております。しかし、ロワーミドル以下の男性には男性であることの利益はなく、つまり男性の利益を行使する選択肢はありません。彼らに男性学を勧めても、彼らは改めて自分たちが負け組だと思い知るだけです。

日本は紛れもなく、男性が有利な社会です。しかしながら、それはあくまで、上位の階層にある人々だけです。下位の男性は棄民されかかっており、彼らに男性であることの利益などありません。彼らに当事者でない誰かが「男性であることを捨てよ」と主張しても、何を今更と思われるでしょうし、いらぬ説教されているようにも思われるでしょう。

 

弱者男性には自身の社会的な男性性をどうするのか?という選択肢がありません。しかし、ミッドミドル以上の女性には社会的な女性という立場をどうするのか?という選択肢があります。

日本ではミッドミドル以上の女性は女性という立場を捨てずにキャリアアップすることが難しく、それは確かに大きな問題でしょう。ミッドミドル以上の女性は女性として生き、経済的な地位をある程度諦めるか否かの選択肢を迫られています。

弱者男性は社会的な男性の役割を捨てたところで、何か大きな変化があるわけでもありません。せいぜい「俺は結婚できなかったんじゃない、結婚しなかったんだ」というような発想の転換或いは誤魔化しができるようになる程度です。

弱者男性が社会的な男性という役割をやめれば、アッパーミドル以上のキャリアウーマンと結ばれるというのであれば、ミッドミドル以上の女性の選択肢と対等になるでしょう。しかしながら、アッパーミドル以上の女性のほとんど全ては、弱者男性のことを歯牙にも掛けていません。学がないからと対等に会話する相手にならないと決めつけていますし、そもそも経済的地位が釣り合わないと考えているからです。

このような状況で、弱者男性に男性学を勧めても、余計なお世話以上のものになりません。彼らには選択肢がないんですから。

 

私は個人的な感覚ですが、いわゆる弱者男性はあまり男性的ではありません。ほとんどがオタクで、つるむ仲間は男性で、匿名ネットではともかく社会では優しく気弱な人たちです。彼らは選択肢がない中で、環境に適応し、ごく自然に男性性を捨て去りつつあるのです。

方や、アッパーミドルの自称フェミニストの男性の中には、男性性を強く押し出している人々がいます。彼らにとってフェミニズムは自身の男性性を主張する手段でしかありません。しかし、フェミニストの女性、特に古参でないフェミニストは彼らの危険性についてあまりにナイーブに過ぎます。

彼らがーもしかしたら私もそれに入るかもしれませんがー女性に優しいということは女性を対等に見ていないという可能性がありますです。もし、女性と男性を「対等に」見ているならば、フェミニスト男性としての態度は弱者男性にかなり配慮しなければなりませんし、フェミニズムを女性にモテるための手段にはしません。しかし自称フェミニストの男性の中には、弱者男性に非常に横柄かつ傲慢で、フェミニズムをモテるための手段としている人が多く見受けられます。これは、非常に強度な男性性の証明です。

私は最近のフェミニストが彼らに説教や注意をしたことを見たことがありません。それどころか、フェミニズムを理解しているが故に、男性としては弱者男性に配慮する必要があると主張する私を「インセル」扱いしましまた。女性のフェミニストインセルつまり男性のモテを高く評価するという状況は極めて問題がある言わざるをえません。

現実的に男性学に近い弱者男性より、フェミニズムを利用しているだけの非常に男性性が強い男性をモテるということでフェミニストが評価している状況で、フェミニズム側が弱者男性に「男性学」を唱えたところで、説得力などありようはずがありません。

 

女性の社会的地位が上昇しているのは、フェミニストの長年の努力により、社会が受容しつつあるからです。フェミニストが社会に強制したからではありません。あくまで、主体は社会です。

男性の社会的役割を放棄しても良いという思想を、ただ声高に唱えても、そこに何らかの利益がなければ社会は動きません。

例えば、女性の社会的地位を上昇することを社会が受容しつつあるのは、能力が高い人を労働力として確保し、また潜在的な消費者を増やすことができるからです。もし、キャリアウーマンとパートナーになった男性が自身のキャリアを維持できる状況で、パートナーと対等に接することができるならば、社会や体制とすれば、階層を再生産し、消費を持続可能になります。

ですが、アッパーミドル以上の男性は必ずしも同一階層の女性を選びません。経済的に余裕があるため、選択肢があるからです。ミッドミドル、ロワーミドルの女性は同一階層の婚姻にこだわりません。にも関わらず、キャリアウーマンは同一階層以上の男性にこだわります。教養や経済的な階層が似たようなものでなければ、対等になり得ないと考えているからです。

キャリアウーマンはキャリアを捨てたくないので、家庭の問題について、自分以上に気にかけてくれる男性を探します。しかし、同時に、教養や経済的階層が似ていなければ関係を構築できないとも思っているので、アッパーミドル以上の男性から探すことになります。アッパーミドル以上の男性は男性的であるということに選択肢があり、女性を選ぶことについても必ずしもキャリアウーマンを選ぶ必要はありません。

確かに、日本は家庭への支援は弱く、女性に家庭について負担を押しつける文化で、女性が結婚しながらキャリアを積み重ねるのは難しい国です。しかしながら、金ではなくキャリアが大事ならば、男性を強く主張できない、そもそも経済的にパートナーに依存せざるを得ないが故に家庭の面倒を見ざるえないだろう弱者男性に見向きもしません。学や教養などの違いは、密なコミュニケーションでは解決不能というのでしょうか?

弱者男性が弱者男性であるのは、自己責任ではありません。選択肢など彼らにはほとんどありません。もし彼らに自身の仕事で忙しく、男性に家庭の面倒を見てほしいという女性へのチャンネルがあれば、彼らは男性学を真剣に実践するようになるでしょう。

しかし、現実には、キャリアウーマンは弱者男性をパートナーにするくらいなら、孤独でいいと考えています。そのような社会状況で、弱者男性に男性学を説いてみても説得力などありません。弱者男性に「男性性を捨てないから辛いんだ」と言っても、とうの昔にほとんど捨て去っているうえ、それを実践したところで現実的な利益なんてないからです。そもそも彼らへのチャンネルは閉ざされぱなしなんです。

弱者男性は男性学を主張されるまでもなく、徐々に男性性を捨て去りつつあります。男性学はキャリアウーマンの階層を再生産させるということが実証されれば、社会に受容されるでしょう。しかし、現実に男性学を受容できる余地がある男性の階層である弱者男性をキャリアウーマンは選択しません。結果、日本では、男性学は使い道がないわけです。これは弱者男性側の責任でしょうか?

 

弱者男性にとって、男性学というのは形而上の課題であり、形而下の課題ではありません。社会的、経済的利得がないからです。

彼らは環境に適応し、男性性を諦めつつありますが、男性学について拒絶反応を起こします。

フェミニストはそれを弱者男性が男性性が強いからだと誤解しています。しかし女性の影が薄い男性たちが男性であることを維持する必要はありませんし、実際に彼らのカルチャーは女性的です。

オタク文化は一見すると男性的に思えます。しかしオタクの行動様式は概ね女性的です。女性が不在であるため、女性を理想化し、現実、自身が女性的な側面を有していくようになります。男性的である必要はあまりありません。

つまり、弱者男性が男性学に拒絶反応を示すのは、弱者男性の男性に理由があるのではないように考えます。むしろ逆に彼らが男性学にあるようなことを言われるまでもなく、実践「せざるをえない」からだと考えます。

さながら、キャリアウーマンが男性に「お前が出世するためには、女性を捨てろ」と言われているようなことです。

彼らは男性であることをやめたくはないでしょう。ミッドミドル以上の男性のように男性らしさを捨てずに生きたかったはずです。しかし選択肢がありませんでした。しかもそれは前向きに出世できるからではなく、生存と心の安定のためです。

そのような人たちに階層に接点がない人々が「男性らしさを捨てれば楽になれる」と言えば、彼らは非常に頭に来るでしょう。

「俺たちの苦労も知らないお前が、俺の努力も知らずに、上から目線で好き勝手言ってんじゃねえ」てね。

キャリアウーマンに男性が「お前が出世するためには女を捨てろ」と言っているのと、固有名詞を変えれば、全く同じです。

弱者男性には選択肢がありません。選択肢を閉ざしているのは、なんだかんだで女性側です。ならば、彼らには男性学を説くのはやめなければなりません。

男性学を唱えるべき相手はアッパーミドル以上の男性です。