merlinrivermouth’s diary

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(レビュー)オオカミの皮をまとう男

Netflixオリジナル映画です。

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あらすじをあらすじ

たぶん20世紀初頭。

山奥の限界集落の唯一の住民の主人公はハンターで生計を立て、基本的に自給自足の生活をしていました。皮は必需品であり、かつ高価で、猟を誰もやりたがらないため、貧乏ではありません。しかし、ハンターという職業や山奥で孤独に暮らしていることは偏見と差別の対象でした。

主人公は偏見や差別にうんざりしていたので、半ば人間関係を諦めており、結婚を勧められても断ってました。しかし、水車小屋で女性となんとなくそういう関係になって、希望を感じました。

なんとなくそういう関係になった女性の親は皮の代金の代わりに彼女を主人公に嫁がせました。

主人公は人との関わり方がよくわかっていないだけで、子供の狼を見逃すほど性根が優しい男なので、不器用ながらも身売りされた彼女を愛していましたが、彼女にはあんまり伝わっていない様子でした。

主人公のお嫁さんは病気になり、主人公は必死で看病しますが、死産し、彼女も死んでしまいます。主人公は彼女とその子供を埋葬しますが、彼女が病気もちで、自分に嫁ぐ前から妊娠していたことに気付き、腹を立てます。

主人公は彼女の父親を問い詰め、彼女が未亡人で、にも関わらず懐妊していたことや病気を抱えていたことを白状しました。彼女の父親は主人公を差別していたので、裏切り行為に問題を感じなかったのです。

主人公は「お前を愛していた娘を死なせたのはお前だ」と父親を責め、「春に皮の代金をとりにくる」と告げました。

春、主人公は父親のところに行き、皮の代金を求めますが、父親が代金として用意したのは末娘でした。主人公は家族を持つことについて諦めきれなくなっていたため、了承してしまいました。

父親は末娘に毒を与え、耐えきれなければ主人公に使うように告げました。

主人公は二番目のお嫁さんに、これまた不器用ながらも優しく接しようとしましたが、お嫁さんの方はとにかく文明と隔絶した孤独な生活や好きでもない男と身体の関係を持つこと、そして何より差別感情から、主人公の優しさを感じることができませんでした。また主人公は主人公で、コミュニケーションがとれませんでした。

彼女は懐妊しますが、ついに生活に耐えられず、主人公に毒を盛り、意気揚々と下山しようとしますが、道に迷い、狼用の罠にはまってしまいます。しかも冬でしたので、一晩開けて、意識不明になりました。

主人公は彼女を探し出し、これまた一生懸命に看病しました。彼女は意識が戻りましたが、主人公は彼女が生活に耐えきれないことを慮り、彼女に離縁することを告げました。

主人公は健康が回復しないので、何かおかしいことに気付き、ハーブティーの中身を確認したところ、自分が毒を盛られていたことを知ってしまいました。

主人公は人間に絶望し、毒を飲んで、ベッドに横たわり、狼に自分の身を任せたのでした。

終わり。

 

私的解釈

スペインは西欧ではありません。個人主義を基調とした市民による西欧近代の社会ではないということです。日本ほどでないにせよ、世間があり、少数派に対する偏見と差別が根強いです。

社会から孤立または脱落してしまった人がどれほど絶望的な状況であるかを、具体的な比喩を用いて表現しています。

我々日本人はスペインよりも顕著に非世間存在について顕著な態度を示しますし、しかもスペインよりも非世間存在を多数作り出しています。日本人において、なんらかの挫折をした人はスティグマを持ってます。

世間側に理解されず、受け入れられず、社会から孤立とは物理的な意味ではなく、精神的な意味でもあることを示す映画でした。

非常に上手く表現されています。世間側の人間も世間の非人道性を認識せざるを得ないでしょう。

 

感想

非世間存在は世間側と人間的な接点を持てば、不幸を呼びます。

僕も非世間存在です。ですので他人事のようには感じられませんでした。しかし、日本はスペインよりも極端な世間があり、しかも世間が明示化されていません。つまり、アウトサイダーはかなり存在するので、完全に絶望する必死はないということです。

日本おいて、非世間存在は、自分の身を守る警戒心さえ怠らなければ、絶望的になる必要はない、ということです。勿論、仲間になり得る非世間存在は世間存在と違う意味で危険である可能性があり、基本的に世間を頼れませんから、常に緊張感を持って自分で物事を判断する必要がありますが。

日本の世間は包摂しません。僕がどんなにキャリアを重ねて、社会に必須な人材と評価されても、僕は世間に組み入れられることはありません。例えば物語の主人公が生活を捨てて、町で普通に暮らすても、偏見や差別から自由になることは不可能でしょう。

一度、非世間存在になれば、個人化する以外に生存の道はありません。自己利益を自分で評価し、生活や人生計画について自らの考えを恃み、世間側を信用しないということです。

世間側との婚姻は包摂を求める行為です。物語の主人公の不幸の始まりは二度目の婚姻からです。彼に適切なパートナーは最初の妻即ち、未亡人であり、にも関わらず父親不明の妊娠をしたような、非世間存在でした。

末娘は主人公と婚姻するまでは世間存在であったので、主人公との生活に耐えきれず、主人公に不幸をもたらしました。

僕はこの物語から教訓を得ました。世間側とは表面的な付き合いに留め、個人的な関係は非世間存在で人間性を喪っていない人とだけ行うべし、ということです。