merlinrivermouth’s diary

酒にむかいて当に歌うべし。人生、幾ばくぞ。喩うるなら朝露の如く。去りし日ははなはだ多し。

真の頭の良さ(テストの点なんて誰でもとれる。それを頭良いとは言わない)

テストはスポーツに似ている。

勉強の仕方と点数をあげるためのコツを教えてもらえさえすれば、労力をかけた順番に点数が上がる。まさに一本でも素振りした者が勝つ世界である。

当然、高い学歴を得るためには犠牲がいる。それだけ労力が必要だからだ。人間関係、経験、知見、、、勉強に労力をかければかけるほど、学んだことを内実化する契機が失われる。

本来、学問は長い時間をかけ、当人がそれが必要だと思ってするから、意味がある。

 

勉強ができる人ほど、勉強ができることが人格的に優れている証明のように語ることが多い。実際には、そんな因果関係はない。人格的に優れていることを要求される科目はない。

むしろ、そのような発言が、当人が自身の何らかのコンプレックスを乗り越えていないガキで、人格的に優れていない証明になる。そして、同時に、それを発言して、そのような評価を受けるということさえ分からないほどの馬鹿であるとも。

 

頭の良さとは、さまざまな基準がある。

想像力、先見性、直観力、論理性、類推能力、創造力、計算能力、抽象概念と具体存在の往来。

教養はこれらがなくとも、非常に容易に学びとることができる。教養の高さは真の知性とは無関係である。確かに、これらの能力を育てる契機にはなり得るが、そもそもこれらの能力を育てたいと当人が強く思わないのであれば、意味がない。

意味がない奴が教養高くとも、宝の持ち腐れであり、ネット民が情報通語るのとあまり大差ない。

また、これらの概念が必要な科目は1科目しかなく、学生のほとんど全ては全く点をとれず、現在でも大人は得意としない。それは現代文の読解と回答である。

 

想像力、先見性、直観力、論理性、類推能力、創造力、計算能力、抽象概念と具体存在の往来、これらを自らの脳内で巡らし、計算するために、邪魔になる性格がある。

先入観、自己相対化の欠如、自分自身の何らかのコンプレックスである。

ある予測をしたり、ある情報を解釈したり、ある戦略を計算する場合、個々の事象の可能性や確率が大きく違えば、結論が大きく間違う。そのような誤謬が起きる原因は、自身の「こうに違いない」「こうであってほしい」「こうあるべきだ」という感情だ。それらの感情の発生原因は自身の何らかのコンプレックスにある。

だが、それらのコンプレックスがない人間はおらず、自由になるためにはこの世から解脱して仏様になるしかない。考えに反映しにくくすれば良いだけであるから、自身のコンプレックスと向き合い、それを自覚し、自分を疑う或いはチェックし、それらをあらかじめ考慮に入れたうえで、計算する必要がある。

当然ながら、それができる人物は最も許せない自分自身の一部を許せる人間であるから、他者に対して非常に度量があり、寛容であろう。

自己中心的、無謬、傲慢、ご都合主義、これらの性格は知性がない証明と言える。

 

想像力、先見性、直観力、論理性、類推能力、創造力、計算能力、抽象概念と具体存在の往来。

これらの能力が発現するのは、才能と動機が必要である。

持って生まれた遺伝形質だけでなく、幼児からそれを必要とされる異常に緊張感を強いられる、不遇な環境とそれがそのまま人生全体の不幸にならない、強靭な肉体と幸運。異常な切迫感に包まれた、正義感或いはヒューマニティー或いはコンプレックス。

これらが想像力、先見性、直観力、論理性、類推能力、創造力、計算能力、抽象概念と具体存在の往来を鍛える。

当然ながら、そのような人間の才能はその人自身を不幸にもさせる。

 

ある矛盾が発生している。

ある仕事をする動機自体は非常に強い自己のコンプレックスだが、仕事内容自体はそれを相対化しなければならない。

だが、この乖離が大きければ大きいほど、偉大な成果をなし得る人物になる。または最悪の不幸を招くか。

自身の中に潜む怪物が大きかろうが小さかろうが、それを手懐けなくてはならない。でなければ、自分という怪物にむさぼり食われ、自分や親しい人の人生自体を不幸にするだろう。

これを成し得る人こそ、大事を成し得る資格があり、真に知性があると言える。

 

どの仮説にも検証が必要で、常に修正する必要がある。如何に想像力、先見性、直観力、論理性、類推能力、創造力、計算能力、抽象概念と具体存在の往来が行えたとしても、検証するだけの経験を積まなければ、脳内で妄想しているだけである。

教養は内実化しなければ、意味はない。王陽明知行合一と言っている。内実化するためには、ありとあらゆる経験が検証を行う実験となり、古今の教養や含蓄を内実化する契機になる。

自分に甘い人間、自分を顧みない人間には用がない。自分に厳しく、自己反省を厭わず、しかし己が飼う怪物に負けず、世間に対する抵抗を続けられる者しか持ち得ない。

長い苦労、にも関わらず無謬や傲慢に陥らず、寛容で居続けられる者こそが知性を育める。それには透徹した意志が必要で、透徹した意志を持つためには強烈なコンプレックスが必要だ。

 

高い知性は分野にとどまらない。教養がないからと言って、知性が低いとは言えない。生半可な教養は先入観を産み、知性を低くさせる。教養があるからと傲慢になれば、無謬になって、馬鹿に陥る。

どの分野でも、あることに集中して取り組むならば、知性が必要になる。スポーツでも、手に職でも、知恵が必要になる時がある。

また大事を成し得ないからと言って知性がないとは言えない。

こんな世の中で、幸福な家庭を築ける我慢強さと寛容さを双方ともに持ち得るだけでも知性が必要であり、離婚しながらもキレずに子育てをするだけでも知性がある。自身の夢のために資金が必要で、キャバ嬢やっているというのも知性があると言えるし、社会正義のために自分の稼ぎを棒に振っているのも知性がある。

知性がないというのは、傲慢であったり、無謬であったり、先入観の固まりで、ステレオタイプの評価しかできない人間のことだ。そのような人間はどんなに教養があっても、どんなに高い学歴や専門知識があっても、その人自身の判断をその人自身が向き合えない問題によって曇らせ、自分の感情に負ける。彼らは既に自分の怪物に自分をむさぼり食わせた残骸でしかない。

 

大人になっても、テストの点数が人間性や優秀性を示すと思っている輩がいる。彼らはその発言自体によって自らの愚かさを表出している。

私が高校生の頃、同級生が努力と才能について議論していた。

私は言った。

「努力と才能はかけ算だ。才能がない人は努力しても結果は出にくいが、才能がある奴は他人より少ない努力で結果が出る」

彼らは言った。

「それは言えてるな。お前は馬鹿だけどな」

私は何も言わなかった。馬鹿に何を言っても仕方ない。

あれから彼らはどうしてるだろうか?きっと物凄い馬鹿になってるに違いない。