merlinrivermouth’s diary

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個人とは孤独なものだ

日本人は周囲の人間的評価を異常に気にする傾向にある。その現象は日本に世間があり、中間団体があり、人間的評価がキャリアに多少なりとも影響するから、という説明が一般的である。だが、私は、主要因は日本人の幼児性にあると思える。実際、他者の評判を気にしないなんて日本人がいたら、日本人は変人に思う筈だ。

日本人は自らの悪い評判を気にする。その悪い評判がそもそも妥当でなく、悪意があり、それを発した連中と親しくなくともだ。確かに自身の社会的地位や経済的地位、尊厳、社会的正義に関することなら、むしろ戦わなくてはならない。だが、精神的に影響を受けるようなことだろうか?

私は私と同様の出自、属性、階層の連中と親しくなれない。正確に言えば、その人個人がどうあれ、基本的に敵対関係になる。私の存在自体が彼らの有り様の強烈なアンチテーゼになるからだ。だが、階層が高くない人々と仲良くなれるか?といえば難しい。私自身の複雑な人生は彼らのシンプルなそれの概念の外にあるから、彼らは受け入れ難い。そして日本人は排他的である。

私が日本人のどのような集団に属そうとも、私は常に無意味で、なんの脈絡もない陰口の対象になる。しかし彼らの一人一人は私に「実はまともな人だ」と言うのである。私はいちいち気にしなくなった。自分で考える脳みそもなく、周囲の動向に常に左右される甘ったれどもと仲良くする必要なんてない。自らを理解している数人と親密であれさえすれば、それでいい。

自分で自己利益を考え、自分で人間の自らを律せるある種の指針を考えられる人間は近代的な個人である。その才能は代償として孤独をもたらす。日本ではそれは顕著だが、欧米世界でも言うではないか。個人は孤独であると。ヨーロッパがいかにフラタニティでコミュニティを形成しても、その本質は変わらない。日本ではそれがより顕著に出るというだけの話だ。

日本において個人を獲得した人間は社会的、経済的地位、実績、名誉を手に入れる資格を得られる。だが、代償は人間関係だ。だが、そのようなものに何故気にやむのか?取るに足らない連中の評価ないし評判など、空気と同じだ。匂いがするだけで、自らの進むべき道を遮るものではない。