merlinrivermouth’s diary

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ネット右翼の右翼性

おそらく私のブログの読者の多くは非ネット民であり、教養があるため、ネット右翼ネット左翼とやりとりした経験がほとんどなく、教条的に国家主義全体主義軍国主義或いは自由権社会権を重視する発言などに注目してしまうだろう。もちろん、彼らを政治問題と捉えた場合、表見的にも現実的にも、その評価は間違いないだろう。だが私は彼らの心性や真実の姿に興味があったため、当初から、ネット右翼が右翼なのか、ネット左翼が左翼なのか、疑問があった。むしろ彼らと接すれば接するほど、ネット右翼が右翼ではなく、ネット左翼が左翼でないということが確信に変わった。本論では、ネット右翼の右翼性について論じる。

 

右翼の類型は国家主義国家社会主義、差別主義、復古主義、宗教などなど左翼以上に幅が広い。しかし左翼が違う考え方の左翼と本質的に相容れないのと違い、右翼は包摂される。それはどの右翼も地域を超えて、根本的な理念が共通しているからである。それはヒエラルキーを秩序とする、ということである。左翼の類型の違いは目標の違いであるが、右翼の違いは手段の違いである。しかし、ネット右翼ヒエラルキーを全否定する。私が接した限り、ヒエラルキーを肯定する右翼はネット右翼を攻撃し、ネット左翼の方がマシだと公言するような人々だった。ネット右翼ヒエラルキーを肯定した者は皆無であった。

試しに機会があれば、聞いてみるといい。「何故、先輩の話を聞こうとしないのか?」「何故目上の人に敬語を使わないのか?」「何故、自分よりも学歴がある人の話を信用しないのか?」「何故、自分よりも社会的地位が高い人々に全く当たらない中傷行為を行えるのか?」皆、一様の返答をするだろう。「人間は平等だ」だと。

日本の右翼にとって大事なのは「心」である。私になりにかいつまんで解釈すれば、自分で考えずに、上位者に無条件で従え、ということである。自分より上位者が更に上位者に、そして最終的に天皇に、というピラミッド構造の秩序を受け入れるためには、上位者に諾々と従わなくてはならない。もちろん上位者であればあるほど旨味は大きいし、上位者であればあるほど自由裁量権が拡がり、上位者であればあるほど学歴や社会的地位が高くなる。戦前を理想とする想定される世間的社会はネズミ講である。下位者であればあるほどカモであり騙される方であって、上位者であればあるほどサギであり騙す方であるから、学歴が高い大学や教育機関ほど体制の公約に従わない。詐欺師が自分の詐欺を本気で信じてしまえば、詐欺にならないからである。

日本は戦前ほどでないにしろ、天皇制と半ば無関係ながら、世間が残存している。先輩には敬意を払う必要があるし、自分より社会的地位が高い人には敬語を使わなくてはならないし、学がある人には、内心の反感はどうあれ、信用するような素振りが必要だ。最近は廃れたが、「先生」と呼ぶこと、呼ばれることは当たり前だった。特別に左翼でない限り、一般的な社会人ならば、これが当然で、習慣になっているため、先に挙げたネット右翼への質問に疑義申し立てが起きよう筈がないのだ。だが、ネット右翼はそうではない。先輩からの教育的指導を誰よりも拒絶する連中だ。

 

ネット右翼はまともな社会生活を送っておらず、社会や「世間」に対するルサンチマンを強烈に抱いていることは前に述べた。彼らが「世間」に対して反発しているのだから、ヒエラルキーを是とする主張に反発するのは当然である。では、何故彼らはヒエラルキーを第一の前提条件とする右翼に強烈なシンパシーを抱いているのだろうか?それは彼らの認識が左翼=体制=世間或いは社会と捉えていることにヒントがある。

彼らが打破すべき体制や世間や社会が左翼ならば、彼らが自らを市民として認めさせるには、右翼思想を使い、体制や世間や社会を右翼思想で染めるしかない。つまり、彼らにとって右翼思想は革命思想なわけである。

当然ながら、現実では、彼らは右翼思想では最下層に分類、固定化されるし、迫害対象と見做される。そしてそもそも体制や社会は右翼であり、世間は右翼そのものである。それ以前に彼らは自分たちが根本的に右翼ではないということをメタ認知していない。現実と彼らの認識の大きなズレが彼らを彼ら自身から見ても、理解不能たらしめている。彼らが反社会的或いは反世間的或いは反体制的な発言をしても、彼らは自らを体制側、右翼と評していたり、のべつまくなくしに左翼だの被差別対象だのと宣うのは、彼らの矛盾を解決するにはそのような無理筋を主張するしかないからであり、彼らが過激化するのは、まさに彼らの意を汲んだ政権が彼らの主張通り、隠に陽に苦しめているからである。

 

歴史的にも世界的にも、支配者に精神的に依存する隷属民は存在する。しかしネット右翼はそれとは違う。支配者たる自民党政治家や財界の悪口は言うに及ばず、天皇上皇にさえ全く敬意がない。あの安倍ですら、特定の政策では非難の対象である。彼らは文字通り支配者と自らを対等だと見做しているのだ。彼らが隷属民となっているのは結果であって、彼らはそれを望んでいるわけではない。愚かにも彼らの主張が彼らの望まない結果を招いているだけである。

 

ネット右翼の個人としての始まりと経緯おそらくこのようなものであろう。

何らかの要因で、世間から爪弾きされた存在が爪弾きにされた理由である教育や学問や左翼を否定し、努力することなしに世間化を求め、そのような存在が匿名ネットに集まり、自己洗脳化が始まり、世間を自分たちのものにしてしまおうと考え、政治ムーブメントを利用した結果、自分たちの考えをまさに現実化しつつある政策によって、迫害対象になり、過激化しつつある。

彼らの政治主張は確かに右翼であるが、彼らが精神的に右翼とは言えない。当然、個人でも左翼でもないが、彼らは世間から爪弾きにされ、世間を否定している以上、右翼になれようがない。彼らがどんなに維新クーデターを目指しても、彼らが成り上がれることはなく、むしろ彼らの社会的地位や世間的ヒエラルキーを確定しているだけだ。

彼らを評価する言葉をネット右翼としてしまった場合、右翼が強調される。ネトウヨという言葉に「愚か」という含意があるが、文字通り愚かというのは第一義的な評価だと言える。愚かな人間に右翼も左翼もなく、実際ネット民を除いては、彼らの主張は意味不明な発狂以上の意味を持たない。彼らは反右翼であり、反左翼であり、反知性主義であり、反社会であり、反世間であり、反体制であって、自らを体制側と見做している愚か者だ。

 

余談)河野太郎ネトウヨにフォローされているのを自慢しているという。反右翼、反左翼、反知性主義、反社会、反世間、反体制の存在に評価されて喜ぶとは、自らが反右翼反左翼反知性主義反社会反世間反体制だと自白しているようなものである。愚かなである。麻生太郎も大変だろう。