merlinrivermouth’s diary

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(社会)クソ自己肯定感の世

色々あった。

色々聞いて、色々考え、色々思った。

俺はいわば20年前からタイムスリップしてきた状態だ。確かにバブルが崩壊し、経済的に苦しい同世代がいて、いずれ新興富裕層になる連中が彼ら特有の即物的な価値観で一方的にマウントを取り始めていた。

だが、そういう自称エリートたちを除いて、俺の同世代にはある種の仁義があり、誰かを悪様になじるようなことをしようとしなかった。物質的な物に対する諦めと精神的なものに対する憧憬によって、自分なりの幸福を追求しようとしていた。

そこにおいては、周囲の評価は二次的な意義しかなく、そもそも自分が何者か?を追究する姿が評価軸だった。ある種のトンガっている人はそれだけで評価された。そこにおいて、流行だけでなく、本質の理解に熱中する姿が理想的だった。

現在、人の評価軸は一元的で、表見的で、即物的で、階層的だ。金を持っているか?イケメンか美人か?かわいいかブサイクか?身長が高いか?清潔感があるか?金を持っているか?収入はいくらか?どこに住んで、どういう仕事をしているか?他人に自慢できる人付き合いか?どれくらいモテるか?オシャレか?センスがあるか?

…全くセンスがない。目に見えるスペックが人間関係上の評価や「自己肯定感」に直結し、自身の階層を表象し、外在的な価値だけでなく、内面の価値をも決める。

スペックが高い人は内面的余裕があり、センスがよく、外見的に優れ、自己肯定感があり、人間的にも優れている…そのような評価軸が現在の日本に確固としてある。

まるでインドのカーストように、それらの即物的な評価軸は日本を覆い、多くの日本人の心に影を落とし、不幸を量産している。その評価軸には人間性や同情や優しさなどなく、ほとんどの人はどんなに頑張っても敗者でしかないからだ。

原因は諸々考えられる。アベノミクスで多数誕生した新興富裕層は俺が毛嫌いした自称エリートで、彼らの即物的価値観が喧伝されたというのが最も大きいだろう。

彼らがやっている個人主義的で、利己主義的で、非人間的な生活は容易には正当化されないし、支持されない。だが、彼らだけが大量に消費することができる時代にあって、彼らが主人公化され、彼らの根拠のない自信が「自己肯定感」という言葉となって、あらゆるツールを用いて喧伝され、彼らのスタイルを正当化している。

本来、自己を認めるという精神的な行為は何かを自慢したり、消費したり、軽蔑したり、即物的で一元的な評価を下したりすることではない。自他共に真摯に多様性を認め合わねければ、成立しない。

現在の価値観では、物質的なものだけではなく、精神的にもカースト上位者の表見的な高スペックが勝利し、ほとんどの人々は非常な無理を強いられる。ほとんどの人にとって「自己肯定感」を上げるための行動が「自己肯定感」を著しく下げるのだ。

そもそも、消費を牽引するカースト最上位者の新興富裕層が実際に高スペックと言えるのか?彼らの行動様式や価値観は彼らが自己を認め難いコンプレックスに苛まれていることを表しているし、ほとんど全ての新興富裕層は圧倒的で、絶望的な借金を持っている。ー自らの資産の3倍から10倍以上のー

俺は現在の価値観に与し得ないし、認める事はできない。誰もが寂しく、心を病んでいるこのシステムで、俺自身めちゃくちゃだが、俺は優しさを振り撒くし、それしかできない。

残念だが、俺は次の時代を精神的に準備する人間のようで、それがこの度の俺の使命らしい。

歴史的な大不況または正常化が始まりつつある。もはやアベノミクス下の価値観は通用しない。

俺は精神的に日本人を救うだろう。相変わらず、俺にはほとんど何も返されないのだろうが。