merlinrivermouth’s diary

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(日記)自分史

僕の両親は人として凄い問題があるわけではありませんでしたが、親としては問題がありました。
夫婦喧嘩は絶えず、常に暴力が発生していました。
父はボンボンで自分の価値観が絶対で、非常にわがままで、家庭について全く協力したり、理解する気がありませんでした。
母は発達障害の気があり、注意力が散漫で、父からいじめられるフラストレーションを子供に対して当たっていました。
どちらもボンボンで、お嬢ちゃんで世間知らずでしたので、子供に対して適切な導きを与えるのが非常に難しく、定型的な教育を施すことしかできませんでした。
姉はクリエイティブではなく、従って普通の日本人で、周りの環境に馴染める人でしたので、親が適切でなくとも、普通の日本人のように育つことができました。
僕はクリエイティブな人間で、常に本質を見抜こうと考える内向的な子供だったので、必然的に日本人に馴染めず、孤立していました。
親は定型的にしか考えられない人たちですから、そんな僕の個性を完全に無視し、自分の理想を僕に強制していました。
僕は父や母が暴力を伴い、またそれが非常に怖かったですから、逆らいようがなく、徐々に自分を棄てていきました。
しかし姉からすると、父や母は僕ばかり構っているように見えて、僕をいじめるようになりました。
僕はそんな父や母や姉から逆説的に学び、誰かに何かを強制することや暴力を以て、身近な人に当たることを絶対にしないと誓い、如何に小さな幸せを得ることが困難なのか学びました。

 

父や母は僕に中学受験を強制しました。僕は非常に勉強ができましたが、僕と同じように勉強ができる中学受験組が嫌いでしょうがありませんでした。誰かを見下して、いじめることにプライドを使っているような連中だったからです。
僕はこんな連中になるくらいなら勉強しない方がマシだと思って、中学受験を拒否しましたが、親から暴力を振るわれました。
結局受験に成功しましたが、僕にとって失敗の始まりでした。僕は地元の公立に進みたかった。
進学した中高は中学受験組の性格の悪さをそのまま体現していました。僕は彼らのようになりたくなかったですし、馬鹿にしていました。勉強そのものも価値を感じませんでした。
僕は学校で孤立し、問題になりましたが、もはや親をあてにしていなかったため、全く相談していませんでした。
学校側は僕や僕の周りの生徒の問題を公にしたくなかったので、親に黙っていました。
しかし高校になるとそうはいかず、タイミングが悪いことに親と僕との問題が更に悪くなって、僕は一人暮らしを始めてしまい、高校に行かなくなり、学校を辞めてしまいました。
一人暮らしというのも、安いアパートに全く家具がなく、僕が貯めた貯金でかろうじてテレビを買った程度でした。

 

僕は学校の連中がこのままエリートになるのが問題だと思いました。彼らの弱肉強食の論理、ルールを自己都合で曲げる感覚のまま、彼らが社会を動かすようになれば、社会が悲惨な状況になることが見えていたからです。
また、僕自身は僕の行いや考えの正しさを証明したかったですし、誰かに認められたかった。
ですので、彼らを排除し、適正な世の中になるためにはどうすればいいか?どういうことが妥当なのか?ということばかり考えて、やがてノイローゼになりました。
ノイローゼになった僕を親は精神的に問題があると感じ、また僕もいくらか問題を感じていたので、精神科にかかるようになりました。
親が求めた治療は患者の個性を無視し、矯正させるというもので、投薬は最初は統合失調の薬や発達障害の薬をどんどん飲まされました。

 

治療には、途中の断絶があり、その間に彼女ができて、非常に良い子で、僕は切実に小さな幸せだけを求める人間ですから、すぐに結婚の話になりました。
しかし、親が信用するカウンセラーが彼女の前で僕と親との問題について僕を責め、僕は非常に怒り、それがきっかけで入院し、彼女と別れることになりました。
入院生活は悲惨で、二人部屋か四人部屋で暮らし、携帯電話の使用は禁止され、据え置きの不便な有料電話しかなく、患者間のいじめは酷く、ナースはそれに介入せず、それどころか医療者側は患者の問題であるかのように主張し、患者はそれを受け入れて、洗脳されるしかない状況でした。
僕は一年ほどの入院で退院できましたが、それまでの僕を諦めさせられ、歯学部に受験することを強制させられました。
しかし、僕はストレスから体調に問題が発生し、医師は僕に発達障害の薬を飲ませました。
発達障害の薬をしばらく飲んだせいで、自律神経がおかしくなり、ストレスが最大化しました。それが原因でまた家族と問題になり、再び二年間入院しました。
その間問題となる発達障害の薬の投薬は続き、また全く散歩すらさせてもらえない状況に陥りました。
僕の内臓は悲鳴を上げていました。
僕がいよいよおかしくなった段階で、親は問題を感じ、僕を強制退院させます。

 

しかし、何が問題か分からず、僕も親も医療に関して全く信用をおけなくなってました。
そんな中で、僕が社会復帰のために草野球を始めたのは無謀でした。草野球チームのメンバーは僕をいじめて、僕は完全に日本人に嫌気が差しました。
そんな中、通っていた予備校で、今の恩師に会いました。
松井先生はアメリカと日本の両方の弁護士資格を持ち、アメリカ軍に勤務していた経験から、NYの医師に僕の健康状態について質問し、僕の治療が始まることになりました。
僕はこのまま行けば数年で死ぬことを告げられ、必死で治療しました。一切外出せず、脳や肝臓が暴れて、疲弊するのを必死に耐え、十年後に回復するに至りました。
その間、先生は僕の才能に気付き、僕の意見はアメリカ政府や金融機関に受け入れられるようになりました。

 

僕は今年の二月にほぼ回復しましたが、それすら奇跡でした。回復できる確率は50%で、肝臓が自然修復する確率は10%しかなかったからです。
この間、僕は友人をほぼ棄ててました。無用な人間関係に煩わせられる暇などなかったからです。そのせいで、僕は社会復帰をほぼ一人で行わねばなりませんでした。
それでも社会復帰は恋心をバネに必死に頑張りました。
足りないもの、自分が必要だと思ったことはなんでもやりました。国から支援されることはありませんから、金に糸目を付けず必死に行いました。
しかし、ついに不運な失恋し、このような事態になった次第です。

親は今や僕に対する仕打ちを反省していますが、僕は許せるものではありません。
僕は親から教わったことはありませんでした。ほぼ自分で考え、自分で自分を教育したか、松井先生からアドバイスされたことです。
親は僕のことを構わずビジネスの成功にかまけていました。川口歯科の成功は僕の犠牲の上に成り立っています。

僕は確かに資産家で、非常に才能に恵まれ、信じられないくらいの高い精神性を持ち、非常にハイセンスです。しかし僕はそれを得たかったわけではありません。
昔の彼女と一緒に三重のど田舎でのんびり暮らすことを真剣に考えていた人間です。
僕は完全に少数派で、日本社会から孤立しています。僕が本当に欲しかった小さな幸せは、僕がアメリカでキャリアを極めることより難しいものです。
僕は幸福な人生と言えるでしょうか?