merlinrivermouth’s diary

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傲慢が綻びを生むというのか

 中学受験をしていた頃、塾の同級生は点数を競っていた。そして、点数こそが人間の価値を決めると固く信じていた。

 僕は週に一度の塾の試験を受けて、見直しの授業に参加していた。隣にいた席の三人組は僕に声をかけ、「こいつはすげー勉強できるから、頼りにした方がいいよ」と仲間の一人を指した。

 一緒に見直しをする過程で、最後の問題だけが、僕と彼とで答えが違った。

 「こいつと答えが違ったなんて、お前が間違っているんだよ」と三人組は僕に言った。

 「俺は間違ってないよ」と答え、問題を解説した僕に、「何偉そうにしてんだよ。お前、バカだからわかんないだよ」と三人組。

 果たして解は僕の答え通りで、三人組は先生を疑ったあと、気恥ずかしそうに黙ってしまった。

 

 ある塾では、僕は馬鹿にされていた。数十人が参加しているクラスにいた時、先生から問題を出された。僕は開始三分で解を確かめに先生のところに行き、正答を得た。だが、5分経っても、10分経っても、誰一人解を導き出せない。結局、先生が解を発表して、授業に入った。

 「あいつ、頭いいの?」と誰かが呟いたのを覚えている。僕は僕を馬鹿にしている連中がこんな問題を解けないことがわからなかった。単に三角形の面積を出す問題を回転させただけだった。

 誰かが「カンニングしたんだろ」と言った。是非とも教えて欲しかった。僕以外誰一人として解を出せていなかったのに、僕は誰の解をカンニングするというのか。

 彼らは習っていないことはできないし、予見可能性がないことが起きるとパニックになってしまうのだ。

 

 他の塾で、階差数列の和を導き出せという問題が出た。僕は数列を習っていなかったけれど、なんとか自分の力でパターンを見抜いて、答えを導こうと思った。

 そして、最初と最後の和と前から二番目と後ろから二番目の和が同じであることに気付き、解を得た。

 先生は「なんだ、知っていたのか」と言った。僕は何も答えなかった。どうせ、信じやしない。

 

 同じ塾で、僕はあまりに出来過ぎていた。同級生の親たちは僕のカンニングを疑った。彼らの誰よりも点数が良いのに何をカンニングするというのか?僕がピタゴラスの定理を発見した様を見ていた先生も同級生の親たちに同調した。

 僕はその塾を辞めた。

 

 僕が第一志望を受かった時、辞めた塾の先生から電話があった。どうやら自分の功績を誇っている様子だった。僕は頭に来て、怒鳴ったあと、電話を切った。後で母親が言うには、その先生は「恩知らず」と僕を怒っていたらしい。いい気味だった。

 

 小学校を卒業間近の発表イベントで、僕が好きな女子と同じグループになった。彼女も僕になんとなく好意を寄せてくれていたのは気付いていた。

 今でも覚えている。僕は小五の時に隣の席だった彼女がほのかに好きで、僕が受験間際に親に強制的に小学校に通うのを止めさせられていた時、バレンタインのチョコを家に届けれくれたのは彼女だった。

 発表イベントで彼女がミスし、僕は彼女に怒ってしまった。彼女は泣いて、彼女の友達が僕に「そこまで言うことないんじゃないの」と強い調子で僕を叱った。

 本当にその通りだ、と僕は思った。中学受験をしていた連中と同類になるなんて、真っ平ごめんだった。

 僕は彼女に謝り、二度と傲慢になるまいと心に誓った。

 

 僕は中学受験の経験から地元の区立に行きたかった。だが、親は体罰ありきで、受かった学校に行かせた。

 学校の生徒は傲慢と偏見によって、自身の存在を証明していた。僕は彼らを反面教師とすることにした。そんな僕を彼らは嘲笑い、そして馬鹿にされていると感じていた。

 いつからか、僕が裏口入学したという噂が立ったが、僕は否定するのすら馬鹿馬鹿しかった。

 ある時、僕と同じ塾にいた同級生が僕に言った。「川口て、受験の時、カンニングしたんだろ?」

 僕はこんな学校に通っているのがちゃんちゃら可笑しくなって、親に黙って、辞めた。

 

傲慢と先入観は思考を停止し、自身を無謬に置くものだ。従って、自身を適切に評価できず、主体的に行動するのが難しくなる。また他者の心情や行動も理解しなくなるため、仕事、恋愛、友人、社会分析、全てにおいて、能動的な成果を出すことができない。即ち、傲慢と先入観を強く抱くと、パターンに沿った行動や思考しか出来なくなり、それを外すことが難しくなる。

傲慢と先入観を持つ或いは持てるのは、自身の評価が少なくとも外見上は高いからである。これは自己評価が低いことの裏返しであり、だからこそ、傲慢と先入観で武装している。

しかしながら、傲慢と先入観で武装すれば、内実が表面上とますます乖離してしまうため、ますます傲慢と先入観を頼りにする必要があり、内面的な退化は留まることを知らなくなる。

パターンに沿った行動や思考しか出来なくなるというのは、単に能力だけを指すのではない。傲慢な人や先入観が強い人ほど、内実、非常に自信がなく、極めて脆いため、あらゆる挫折を忌避し、ありとあらゆることのチャレンジを敬遠するようになる。社会生活を行う上では、ある種のオーダーに従う以外に選択肢がなくなってしまう。

人間の傲慢や先入観はAIの持つデータより遥かに精度が低く、それを強く持つ人ほど私情を判断に挟む。結果として、彼らは意思決定やクリエイティブな仕事に責任を持つことが難しくなる。

 

自信があるかのように見える女性ほど、男を見る目があると言い、表面的には自信がある男が好きだが、表面的に自信がある男ほど、内実が伴わないことが多い。これは、自信があるかのように見える女性はやはり内実が伴っていないケースが多いため、ステレオタイプの評価や判断しか出来ず、自信がある男が良いという真実の意味を理解しないまま、表面的な自信ー即ち傲慢な男を評価していることが多いためだ。

真に自信がある人間は傲慢でもなければ、先入観で判断せずに、自分の心で感じ、自分の頭で考え、礼儀正しく、自分の過ちに対して頭を下げるのに躊躇はない。

傲慢と先入観の罠に陥り、それに無自覚なままでいれば、その人はありとあらゆる場面で、ひたすら堕落し続け、人間的な幸福を遠ざけることになる。

だが、傲慢と先入観の罠に陥っている人は脱するのが難しい。何故なら、「お前がそうだろ」と自身の無謬を証明して、自分を守ってしまうからだ。