merlinrivermouth’s diary

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自己選択権の尊重とフェミニズムの強制

相変わらず恩師が来るのが遅いので、DavitRiceさんの最新の記事からつらつら私が日頃から考えていることを書く。

 

ツイフェミやにわか似非フェミニストに影響されて、男性が女性の矛盾した要望に応えて、失敗したり、悩むケースがある。

例えば、日本において、女性は相手に自己を尊重するように求めながら、一方で経済的に依存できる男性を求めたり、ある場面では女性は男性に媚びる女らしさを強調し、男性に女性をリードできるような男らしさを求めながら、男性が女性に対して、より強いアプローチをすることを低く評価する。

私としては、これらはフェミニズムとは全く関係ない、歴史的な男性評価を、女性たちがフェミニズムぽいような何かを使って表現していることに問題があると考えるが、本質的にはより重要な問題が隠されている。

例えば、ある女性が女らしさを強調した場合、男性は彼女の自己選択権を尊重し、雄ゆうしく振る舞うべきか、彼女の態度を問題にすべきか、或いは無視すべきか?またある男性に男らしさを強調していた場合、女性は男性の自己選択権を尊重し、包容力ある態度で接すべきか、彼の態度を問題にすべきか、或いは無視すべきか?

人はある場面、ある状況でいくつかのペルソナを使い分けるため、これらの相反する矛盾はその時の空気の流れで判断され、従って「日本では」答えがなく、日本人は非常に苦慮することになる。

これは、日本のツイフェミや似非フェミニスト、日本人全般が近代や人権を理解しておらず、そもそもあまり他者を尊重していないことに由来する固有の問題である。

フェミニズムが近代の概念である以上、人権の最も根源的な概念である自己選択権や内心の自由フェミニズムより優先される。また自己選択権や内心の自由を否定するフェミニズムはあり得ない。故に、女らしい態度には男らしい態度が採用されるし、フェミニスト的態度、公共性を帯びた態度には公共性を帯びた態度で接せられる。それが気に食わないのならば、黙って「いなければならない=must」。もしそれらを非難すれば、内心の自由や自己選択権を否定することから、市民適格性がない、という評価される。市民適格性がないフェミニストは存在しないため、それはフェミニストではない、ということになり、そのペルソナは単に市民適格性がない社会不適合者ということだけである。

 

何事も、本来、時と場によって他者への態度は依存される。仕事上の付き合い、職場、それほど親しくない間柄では、公的なペルソナが優先されなければならない。従って、男女共にフェミニスト的なペルソナを被った方が無難であり、誰にでも丁寧語の方が適切だ。しかし、親しい間柄では、公的なペルソナより、個人的な親密性が見える態度の方が遥かに望ましい。故に、フェミニズム的態度より愛情たっぷりの表現が相応しく、丁寧語より悪戯心があるジョークが優先される。また、恋人、家族は個人でもあるので、家族間の経済的な問題においては、公的なペルソナが優先される。

一般に、男性による女性への被害として社会問題になるようなケースでは、その男性や女性と社会問題を語る人は親しい間柄ではなく、社会問題を語る場面は往々にして、公共の場であるため、それらの社会問題について言及する場合は、PCに基づいた態度が求められる。

公的な場において、男性に対し、女性的な態度をとる女性は尻軽女と言われてもおかしくないが、親しい間柄において、距離感がある態度をとったり、それを他者に求めるのは、人間関係を構築できないような問題がある人だろう。

 

恋愛関係は個人的な関係であり、アプローチ段階で、徐々に距離を近付けて、公のものから私的なものにペルソナを変えていかねばならない。相手が公のペルソナから変わらない場合は距離がまだそこまで近付いていないか、脈がないかのどちらかである。

確かに、アプローチ段階においては、公と個人的な関係の違いはグレーで、相手毎に意識が違う。だから、アプローチ段階では、気持ちを伝えるだけでなく、お互いの距離感や意識を測り合う作業や類推も必要になる。

その場面において、アプローチが上手くいかなかったからとミソジミストやインセルなどと評価できない。誰かに好意を寄せたり、寄せられること自体は犯罪ではなく、迷惑にならない限りは、他者を尊重するのが大人の態度である。興味がない人から好意を寄せられたり、興味がある異性に断られたからと言って、その人を罵ることはあまりに共感力がない、非人間的な態度だ。また、フェミニズムはそのような非人間的な態度の正当性を帯びるわけでもない。少なくとも私は女性からアプローチされて断っても、そのような態度に出たことはなかったし、アプローチを断られたからと言って、人間性を否定したことはない。

恋愛やそのアプローチにおいて、他者をミソジミストなどと評価できるケースは、まさに違法性が疑われるケースや女性を人間扱いしていない態度ないし発言が行われた場合のみである。

例えば合コンなどでは、お互いに距離を近付ける前提がある。基本的にフェミニズム的な概念はどこかに置いておく必要がある。女性を物扱いする態度について言及するならいざ知らず、興味がない異性が好意を寄せていたり、興味がある異性に興味を持たれないからと言って、ミソジミストやインセルなどと評価するならば、何のために合コンに来ているのかわからない。場に相応しくない態度をどうしてもとりたいなら、退席すべきである。

 

社会的に成熟した大人ならば、男性女性問わず、時と場は重視すべきだ。他者の自己選択は尊重しなければならず、フェミニズムを強制することはできない。フェミニズムは人権が基本となら、人権の最も根源的な概念は自己選択権と内心の自由である。それらはフェミニズムより優先され、それらを優先しないフェミニズムフェミニズムではない。

恋愛やそのアプローチにおいて、フェミニズムを強制することはフェミニズムでないばかりか、恋愛関係を築くのに相応しくない人間性である。心当たりがある人はそのような独りよがりの態度を捨て、真なる非モテから脱却すべきだろう。