merlinrivermouth’s diary

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現代の公家と武家 都市部富裕層と地方エリート

公家と武家の歴史的対立構造

公家と武家、中央と地方の相剋は日本においてその歴史的経緯から必然だった。朝廷が平城から平安京に移った段階で、朝廷が採用した律令制は現実的契機が当初からなく、ほどなく実効的支配の不可能と力の裏付けがない権威主義に陥った。

朝廷貴族には倫理観が希薄だった。白村江の戦い百済が滅びたことにより、日本の支配に傾倒しなければならず、自らのアイデンティティを自ら破壊したためだった。当初から形骸化している律令制を立て直すなどはどだい無理な話であり、行き当たりばったりの政策を行ううちに、摂関政治院政は自己利益最大化という手段が目的化した。

武家は在地エリートと公家が下野した軍事貴族の集合体で、地方の現実的な統治に目的があった。即ち、律令制とは関連性がない慣行によって、現実的な妥当性を追求するのが彼らの至上命題だった。

必然的に、公家と武家では性格に大きな隔たりが生まれるようになった。かたや現実的契機が希薄な権威主義を拠り所に、自身の既得権の保全と利権の拡大こそが至上命題である、規範意識がない公家と、現実的契機しか持ち得ない妥当性を追求して、自ら規範を作り上げた武家とでは、パーソナリティに接点がなく、互いに忌み嫌う存在だった。

源平合戦鎌倉幕府成立、承久の乱によって、武家政治路線は中世政治において確定的になった。本来、武家側に勝ち目がないにも関わらず、武家側が圧倒したのは、朝廷政治の自己利益最大化、規範意識がないという不信感があるように思える。武家政権は現実の擬似的な法秩序には寄与したが、武家政権そのものには法的正統性はなかった。朝廷政治による法的に正当性がある政治の方が合理的にも関わらず、武家は朝廷を支持しなかった。

しかし、武家と公家の違いはパーソナリティにしかなかった。特に軍事貴族となれば、官位があり、既得権があり、経済的には公家とあまり変わらなかった。彼らが武家たる所以は武家的な規範性に身をやつすことによって、武家たる地方エリートから支援されたからだった。軍事貴族武家アイデンティティを失い、規範意識が薄れれば、たちまち自身に仕える地方エリートに「公家」の烙印を押され、忠誠を失いかねなかった。

事実、日本の中世史の重要な要素に軍事貴族の公家化という論点があった。

江戸幕府は過去の歴史から、武家の公家化をあらゆる手段を利用して、止めた。たとえ経済的な拡大を捨てて、一時的にシュリンクしたとしても、武家的規範は絶対的テーゼだった。

 

明治以降、表面的には武家的規範はなくなったことになったが、大日本帝国体制の既得権者はほぼ武家出身者で、中央で成功するための原資は地方の権益を利用する必要があった。地方においては、下級武士と自営農業主が名望家層を形成し、地方エリートとなった。

地方エリートは県を跨ぐものの、階層性と閉鎖性という点では、通婚圏が限られることから、前時代の在地エリートとあまり変わることがなかった。

これらの階層は敗戦後も続き、バブル期に入るまで、おおよそ規範意識に違いがなかった。

 

現代の公家と武家

現在、都市部富裕層と地方エリート層は規範意識が全く別人格のものになっている。

都市部富裕層は子弟を中学受験させ、6年制の中高一貫校で、私的利益拡大(経済的なものだけではない)と弱肉強食概念、法律や道徳観念の軽視、他の階層への根拠なき無謬性を閉鎖的階層内で共有している。彼らの精神性は平安時代の公家のものと大して変わることはない。

都市部富裕層が自らのアイデンティティを捨てることができたのは、地方の利権を切り離すことができたからだと考える。バブル期に入れば、有価証券市場によって、富を管理し、拡大することが可能になった。地方の地縁や利益に頼る必要はなく、以前の世代で地方から持ち込んだ富をそのまま起業や投資に向かわせる方が利益になるようになった。また新自由主義の流れに沿って誕生した、新興の資産家階層も合流した。

これらにより、都市部富裕層は自らのアイデンティティを自ら喪失し、経済的な合理的選択によって、私的利益最大化、弱肉強食概念、法律や道徳観念の軽視、他の階層への無謬性を獲得したと考えられる。彼らが規範意識を憎悪する理由や、規範意識を憎悪しているにも関わらず伝統的な属性を偏愛するのは、彼らが自身のアイデンティティを喪失したからだろう。

彼らの行動原理は個人主義的と言えなくないが、市民感覚が全くなく、ヒューマニティーが決定的に欠落しているため、近代という枠内で評価することができない。

 

しかし地方エリートは歴史的な規範性を未だ捨てていない。

現在のところ、地方エリートの、都市部富裕層への規範意識のなさに対する反感は「あまり」表面化していない。しかし、地方に基盤を置く、国政の自民党の政治家である石破茂の執行部つまり都市部富裕層へのスローガンは「正直、公正」だった。これは地方エリートに都市部富裕層が「公家化」していることを共有化される前触れであるように思える。

また自民党や旧民主系の地方切り捨て政策は現実的な問題であり、地方エリートにとっては経済的利益だけでなく道義的理由から看過することはできない。逆らい難い自民党の利権によって、対抗できないのが投票コードに出ているからで、追い詰められたり、何かのタイミングで地方エリートの反感が発動するだろう。実際に、河村名古屋市長が起こした、大村愛知県知事へのリコール運動は地方エリートの反対によって頓挫している。

 

結び

アベノミクスは国家が主導する新自由主義だ。これは主義が相反している。中小企業や非正規労働者、女性の切り捨ても、本来は新自由主義の結果として起きる現象になるはずが、結果が手段に置き換わっている。新自由主義は多様性と公平なビジネス機会こそが唯一の正当性であるが、日本ではそのようなものはどこ吹く風だ。

しかし、これらを新自由主義と見做さず、都市部富裕層の利益最大化と捉えれば、非常に合理的選択と言える。彼らにとって、近代的価値観などの主義主張は無意味だ。自らの利益最大化さえ図れるのであれば、法的正当性や妥当性、道義的正当性などは無意味であり、自らより下位の者がどうなろうが知ったことではないからである。

現在の小選挙区制や日本の投票率マスコミュニケーションの属性から、彼らの意図や意識、文化や価値観が最大化され、相対多数を占めるようになっている。

しかし、自民党一票の格差の問題から都市部の当選者を増やす必要があり、自民党議席は都市部で限りがある。故にいずれ自民党中選挙区制に戻さざるを得ず、政治的には地方エリートの政治力はある程度回復するだろう。

都市部富裕層の洗脳装置になっているのは、6年制の中高一貫校と中学受験のシステムである。中学受験は小児の自己選択権を侵害しており、適切な教育に至っていないばかりか、人権上の問題が発生している。即ち、市民や地方エリートがその気になれば、中学受験は社会的または外圧によって是正されることになり、その機能が半減するだろう。機能が半減した中学受験では、中高一貫校の機能も半減する。

都市部富裕層やそのエリートへの反感はそれ以外の階層に既に共有化されている。実際問題、社会的な問題を起こすのは、彼らばかりであるし、生活上、彼らと接して、不快な思いをしない人はほとんどいないと言っていい状態だ。私が知り得る範囲でも、妻と結婚する前から付き合っていた愛人と関係を解消せずに妻と結婚し、妻が出産中に愛人と沖縄に旅行した開成出身のエリート、秘書を病的に怒鳴り散らしまくった元国会議員、在特会と関係があるうえに陳情にやたらと金銭を請求し、陳情先からも傲慢な態度で定評がある元財務官僚の国会議員、国会でろくに質問に答えない官僚、出世を約束されたからと部下に違法行為を強要する官僚、平気で二枚舌を使ってドヤ顔する国際政治学者、「司法機関は本来私的紛争の解決の場ではない」と公言できる最高裁事務局、枚挙にいとまがない。

彼らを是正できないのは、彼らの正体が分かりにくいために、問題を共有化しにくいからだ。今、私が問題を明らかにしたのだから、共有化は容易く、彼ら以外の圧倒的多数が改善を求めれば、政府としては動かざるを得ない。

私は、都市部富裕層の公家的な価値観は、現代の日本における、見えざる最大の社会問題であるように思う。おそらく現状の日本の不正義の根本的要因は新自由主義にあるのではない。