merlinrivermouth’s diary

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ネット民への啓蒙⑤リベラルとは何か?

ネット民のほとんど占めると考えられるネトウヨはアンチリベラルである。しかし彼らにとってリベラルとは、自民党の政策に反対する政治家や市民の総称に過ぎない。ネトウヨにとって、立憲民主も共産もリベラルということになる。そんな馬鹿げた話はない。

ネトサヨの側もリベラルを知らずにリベラルを自称している。国民民主党はいうに及ばず立憲民主党もリベラルでないにも関わらず、それらをリベラルだと誤解していたり、あまつさえ日本にはリベラル政党はないと思っている。リベラルが社会民主党の存在を忘れるわけがない。単にネトウヨが嫌いだったり、自民党の右翼政策に反対しているからと言って、リベラルになるわけではない。例えばリベラルについてリベラルが議論するというお題目でネット番組やっても誰一人としてリベラルがいないという、冗談みたいな状況だ。ネット民のカオス的状態を整える手助けのために、リベラルとは何か?を説明する。

 

リベラルの発生経緯

大恐慌時代、アメリカではプログレッシブという政治勢力が伸長していた。プログレッシブはマルクスエンゲルスに影響を受け、革命ではなく民主主義的アプローチによって社会の改編を目指していた。当時アメリカでは政府や銀行への反感が民衆レベルであり、体制側としてもそれまで行っていた野放図の経済システムでは資本主義が継続できないという危機感があった。

F・ルーズベルトプログレッシブパーティと手を結び、ケイジアン的経済政策を行った。これをニューディール政策と呼び、これによりプログレッシブはニューディーラーとも呼ばれるようになった。

しかしながら、第二次大戦が始まり、軍需によって公共事業が大幅に拡大するとプログレッシブは用済みとなった。F・ルーズベルトが病死するとプログレッシブを体制から庇護する存在はなくなり、本来的に保守的、資本主義的なアメリカの有権者の風当たりは徐々に強くなった。最終的に赤狩りにまで及んだ。

プログレッシブは政治勢力として維持するために民主党に合流する必要に迫られ、自らの名称を改名することにした。即ちリベラルである。ヨーロッパにおいてはナチ政権下のドイツを除いて、そのような名称変更を迫られることはなかったため、現在も大戦前の名称を維持している。即ち社会民主主義社会民主党である。

 

リベラルにとっての自由

自由権とは多義的であり、バッティングする。誰にとっての自由か?という問題があり、例えば大企業と個人の自由はバッティングする。

古典的自由主義における自由はあまりバッティングしなかった。資本主義が黎明期であったため、企業と個人の自由は相関性があったのである。しかし資本主義が進捗した20世紀以降、企業の自由と個人の自由は直にバッティングするようになった。例えば、市場の自由を守れば、消費者は企業の設定した商品を企業の設定した価格で買う必要があり、労働者は個人の時間や経済力を犠牲にして企業に雇用されなければならない。リベラルはそのような現状を改める目標があり、それは個人の自由を優先しているからである。

しかしながら、個人の自由を優先し過ぎれば、やはり、アッパーミドル以上の自由とミッドミドル以下の自由はバッティングすることになる。税の再分配や社会政策の分配が行われなければ、階級流動性はなくなり、結果として個人の自由は担保されない。よって個人の自由を優先していてもそれが行き過ぎないように気を配る必要がある。

多様性の確保は個人の自由を守るために必須であるが、多様性の確保を至上命題にすれば結果として個人の自由は確保されないこともある。例えばフェミニズムを拡大すれば、有能な女性は高い地位や専門職に就けることになる。が、それは公平な自由競争の下で成立するため、税の再分配や社会政策の分配は二の次になり、新自由主義的社会の成立が前提になる。これでは有能でない女性含めてミッドミドル以下の階層の人々の自由は保護されない。アメリカでは、フェミニズム新自由主義と関係があるのは、これが理由で、日本でフェミニズム社会民主党と極めて強い関係があるのは土井たか子氏の影響が強い。

また多様性の確保という点では、本来的な新自由主義社会民主主義つまりリベラルよりも優先順位が高い。より明白に言えば、有意な人材を採用するのに属性に囚われるのは無意味で、ある属性があるからといって優遇されることは市場の公正な競争を阻害する要因になる。極端に言えば、新自由主義は国籍含めた属性に囚われがない。新自由主義が囚われるのは、資産と能力のみである。しかしリベラルはそれが資産と能力を持たない大多数の人の自由を阻害すると理解しているため、多様性の確保と言っても野放図に賛同することができない。

またリベラルが個人の自由を優先している以上、PCを過剰に他者に要求することはやはり問題になる。特に日本においては全体主義的で前時代的な世間が存在し、陰に陽に同調を迫るため、PCが近代化のためではなく世間同調圧が目的に使われているならば、自重しなくてはならない。アメリカのように世間が無数にあったり、ヨーロッパのように世間がそもそも存在せず、市民参加が必須の地域ならばこのような問題は発生しない。がそれらの議論をそのまま日本では適用できない。

リベラルにとって、個人の自由を貫徹するためには、PCや多様性の確保よりも世間の同調圧をどうにかする方が優先順位が高く、世間に対して持続的な戦いを行なってきたし、おそらくこれからもそうだろう。

 

日本におけるリベラル

55年体制下、主要な野党は社会党であった。社会党には一定のリベラル派がいたものの、多数派は社会主義であったり、労働組合系であった。

中曽根政権の非常に巧緻な政策によって、左派系の巨大国鉄労組は分解し、労働組合は右派系のゼンセン労組と合流、日本労働者組合総連合が誕生した。連合は主義よりも自己利益を優先しているうえ、右派系がヘゲモニーを握っているため、彼らが支持基盤である社会党はたちどころに立ち行かなくなった。社会党は分解し、連合とは無関係な社会民主党社会党が残った。

社会民主党は名が体を表す通り、リベラル派と旧社会党の地方組織が合同している形で、旧社会党とは一線を隠すが、同時に地方組織においては旧社会党の勢力を一定保持している。特に農村部は保守的で、既成政党以外を信用せず、日本の歴史的な文化である中央を信用しないというのも加味されている。

例えるならば、共和国が独裁国家に滅ぼされ、一要塞に閉じこもって必死の抵抗を続けている、と言えばわかるだろう。ネット民は銀河英雄伝説を読んだことがあるだろうから、わかりやすい例えがある。日本の社会民主党イゼルローン要塞に立て篭もったヤン艦隊であり、リベラル派が主であるが、共和国理念を信奉していたり、そもそも少数派的価値観を抱いていたり、保守主義に殉じていたりする者たちも加わっている。私はリベラルではないが、社民党支持である。単に私が先を見る目があり、ヒューマンな人間であり、保守的な信念があるという少数派だからだ。

旧民主党系は数少ない社民党から移籍組のリベラル議員を除いて、おしなべてリベラルではない。そしてそれは当然の帰結である。旧民主党系の支持母体はもはや正規労働者既得権組合と化し、半ば御用組合と化している連合と自己利益優先の大都市圏のアッパーミドルである。旧民主党系は分かれて、前者が地方都市アッパーミドルの国民民主、後者が大都市圏のアッパーミドルの立憲民主となった。

国民民主が右翼なのは当然のこと、立憲民主も政党全体として鑑みれば酷いものである。立民の国会議員はまだマシな方で、地方議会の議員となれば維新と大差がない。立民の方が経済政策的には新自由主義寄りだ。当然だろう。大都市圏のアッパーミドルの自己利益は新自由主義にある。だが同時に立民の死活問題は共産や社民との野党共闘であるから、新自由主義政策を表立って賛成するわけにはいかず、地方議会の右翼議員を抑える必要がある。しかし本来的には内部に一部存在しているリベラル派の方が邪魔で、社会民主党は目の上のたんこぶだ。立民の執行部がトップダウン方式で、野党共闘しているにも関わらず、隙あれば社会民主党を潰そうと圧力をかけ続けているのが立憲民主党である。例えるならば、貫徹した支持基盤がある反体制的な艦隊司令官を宣伝に利用して自身の人気を高め、しかし隙あれば政治的に葬り去ろうとしてことごとく失敗している主流政治家である。立憲民主党銀河英雄伝説におけるヨブ・トリューニヒトである。

 

結び

どうだろう?ネット民はリベラルか?ネット民が攻撃しているのはリベラルか?ネット民が言及しているのはリベラルか?

たまにネトウヨ福島瑞穂氏を攻撃することがある程度で、ネトウヨもネトサヨもほとんど全く唯一のリベラル政党である社民党に言及しないじゃないか。立民が社民党を征服しようとしているのを知っているか?立民が社民党との戦争で敗北続きなのを知っているか?

君らがリベラルを批判するにせよ、リベラルを自称するにせよ、社民党に言及しないなら全く意味ないじゃないか。