merlinrivermouth’s diary

酒にむかいて当に歌うべし。人生、幾ばくぞ。喩うるなら朝露の如く。去りし日ははなはだ多し。

ネットにおける政治的自由権としての表現の自由

日本のネット状況は悪貨が良貨を駆逐するという意味で、全世界的に類を見ない。右翼でも左翼でも、リベラルだろうが保守であろうが、真っ当な言論は正当でない手段によって駆逐され、反社会的、反市民的な投稿だけが目につく。

ネット上における言論は等しくネトウヨ、ネトサヨとされ、一般市民は敬遠しがちだ。反社会的、反市民的な投稿だけが溢れて、存在する状況では、教育水準が高くなかったり、社会経験があまりない若者や大衆ほど、反社会的或いは反市民的なものが諸野の前提であるか、そもそも政治的発言自体が間違いであるかのように錯覚するのは自然だ。

反社会的、反市民的なネット言論は主張している。大衆報道は間違っていると。大衆報道はそれに巻き込まれ、大衆は大衆報道自体も政治的であるとして、信用しなくなっている。

多くの人は反社会的、反市民的なネット言論は間違っていると分かっている。だが、それは教養が高かったり、社会的地位が高いために、精度の高いデータに触れられる階層の人が認識しているものとは違う。反社会的、反市民的なネット言論と同様に真っ当な言論や大衆報道も信用ならない、というものだ。

大衆報道は購買数を減らし続け、体制からの利益を宛てにするようになった。批判的な記事は少なくなり、迎合的な記事が日増しに増えている。

かかる状況から、体制から利益を得られる階層のみ、情報やまっとうな言論に接続でき、大多数の人は反社会的或いは反市民的なネット言論に接続するか全く政治的イシューを考慮する意思を失うことになっている。

日弁連は政治的自由権としての表現の自由を守るためにネット規制に反対しようとしているが、そもそも現状は適切な法律がないために、ネットによって、全日本的に、政治的自由権としての表現の自由が実質的に担保されていない状態だ。

政治的自由権としての表現の自由を守りたいのであれば、ネットに適切な法律を適用すべきであり、ネットを現実社会のように取り扱うべきだ。

総務相高市氏がネット規制法を提案してきた理由は定かではない。だがネット規制法がなければ、実質的に一部の階層だけが政治に参画し得るような体制が維持される。日弁連総務大臣高市氏より体制側なのか?