merlinrivermouth’s diary

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一般市民とネット民の選別

一般市民がネット利用する場合、ネット民が阻害要因となることは既に述べた。一般市民が利用可能な言論空間としてのネット状況を作出するためにはネット民を選別する必要がある。しかしネット民でないにも関わらず排除されることは避けねばならない。恣意的な選別は言論空間をねじ曲げることになり、その選別自体がネット民的な言説となってしまう。

 

ネトウヨやネトサヨの定義付けは数多あるが、どれも妥当性に欠ける。どの定義づけも政治主張に重点が置かれており、究極的にはネット上で政治的発言を行う者をネトウヨネトサヨとしている。市民はすべからく政治的な人間であるとするのが近代市民社会の概念であるので、そのような定義付けは理念や現実、体制と整合しない。はっきり言って誤りだと言える。おそらくはそのような定義付けを行っている者たち自身もネット民であるから、現実や理念に仮託せずに、自らの印象だけで定義付けを行ったのだろう。

既出の通り、私はネット民がネット上で政治的主張を行い、一般市民のネット利用に対して阻害要因となる者たちをネトウヨ、ネトサヨとしている。この定義付けならば、一般市民をネトウヨネトサヨとすることもない。記事やブログ、サイトの管理者としても容易にネトウヨネトサヨを選別できる。即ち、ネット民であればネトウヨネトサヨの可能性が極めて高く、ネット民でなければネトウヨネトサヨではない。あとはネット民の特徴から類推すればいいだけである。

 

特徴①正当ではない対話手法

特徴②常識的な推測や学問的意見に対しての根拠なき否定

特徴③匿名性

これらがネット民の特徴で、①②③は絶対必要条件である。私はどれかが欠けているならばネット民ではなく、従ってネトウヨでもネトサヨでもない、としている。

 

特徴①正当ではない対話手法

最低限の礼儀や過度ではなく多少はPCを守ること、罵声を浴びせないこと、論点をすり替えないこと、複数アカウントによる多数派工作をしないこと、印象操作をしないこと、のっけから他者を否定しないこと、これらは対話を拒絶せずに滞りなく行うために必要な原則であり、まともな一般人は対話相手が誰であれ、少なくとも仲が良くなるか相手の社会的地位が歴然とするまでは当然のように守るのが、社会通念である。

ネット民はこれらの概念がない。ネット民は自らの主張がすべからく善であり、正義であるという前提があり、それらを否定することや論理に疑問を抱かせるような論拠に寛容になることができない。しかし完全な人間や完全な主張ないし論理などはあり得ないため、ネット民は自己の主張がすべからく善であるという無謬性を守るために、対話手法に工夫を凝らす必要がある。少なくとも日本において匿名サイトは法が介入しにくいので、正当ではない対話手法をおおいに利用できる。

それらが対話相手に罵詈雑言を浴びせたり、挑発したり、嫌がらせ目的で付き纏い行為をしたり、論点をすり替えたり、複数アカウントを用いたりして多数派工作を行ったり、印象操作を行うことである。

例えば、一般人がネット民と対話すると以下の通りになる。ネット民が一般人に罵詈雑言を浴びせたり、挑発したり、嫌がらせ行為をする。一般人はネット民を非難するが、ネット民はその非難を罵詈雑言だと非難する。ネット民は自身の無謬を担保するために多数派工作をする。印象操作の結果、一般人がネット民の嫌がらせ行為について非難しているにも関わらず、表見上は一般人が独りよがりにキレているように見えてしまい、ネット民は冷笑して見せて、勝ちを証明する、という訳だ。

これらはネトウヨに広まった論破プロジェクトによって特徴づけられている。即ち他者にある立場性を強要し、他者に議論を強制し、他者がそれについて言及しなければ嫌がらせを行い、言及すれば罵詈雑言を浴びせ、他者がそれを非難すれば論旨をすり替え、あまつさえ非難されたことを中傷だと非難し、論旨をすり替えたことを指摘されれば多数派工作を行うこと、である。ネトウヨに広まった論破プロジェクトであるが、ネトサヨにも踏襲され、ネット民は概ねこのような態度を採用する。

ネット民が読解力に不自由があり、文脈をとれないのは、読解することや論旨を明確にする必要がないからだ。究極的には印象こそが全てであって、むしろ読解できたり、文脈に誠実であったり、論理に整合性があることは、論点のすり替えなどの印象操作を行えなくなるので、ネット民からすれば不便なのだろう。

ネット民にとって対話はなく、議論は勝ち負けがあるもので、勝ち負けを決めるのは究極的には印象である。そもそもネット民のその態度自体が正当ではない対話手法だ。対話とはキャッチボールだ、というのが社会通念だと思うが、ネット民は相手の同意なしにドッチボールやっているのである。

このような、病的なまでに倒錯した態度や行動をまともな一般人はとらないので、ネット民の特徴として有意である。

 

特徴②常識的な推測や学問的な意見に対しての根拠なき否定

ネット民が日常的に対話や議論を行なっているのはネット民だと推定される。ネット民は特徴①②③を有しているため、信用は全くない。ネット民が存在している場においては、あらゆる言説は信用できない前提があり、かつ自らの教養を超えるレベルの意見や主張はたとえ論理的であったり、筋が通っていたとしても、間違っている前提がある。またネット民はそれぞれ自己の無謬性が前提にあるため、疑問に思う意見についてそれを問うことができない。ネット民からすれば、問うという行動が問われた側より劣っているという証明になるかのように思えるからだ。究極的には、その場の印象こそが正邪を決めるというのがネット民の概念であるので、正しい結論や妥当性がある推測に繋がる可能性は極めて少ない。

ネット民が正しい、或いは妥当な結論や推測に繋がる場合は、ソースがはっきりしている場合があるが、当然ながらそのソースはネット民以外の社会的な信用や裏付けがある場合で、ネット民からして信用が全くないネット民がそれに追記したり、応用を効かせることはあり得ない。つまりネット民から意見や主張を創造する可能性はゼロである。

そのようなネット状況において、ネット民ではないまともな一般人が参加した場合、ネット民は自らの正しさの証明或いは自らが間違っていないための証明としての印象操作としては、常識的な推測を否定することや学問的な見解を否定するしかない。しかも常識的な推測や学問的な見解は往々にしてソースがはっきりしないので、ネット民はリアルな意見に対して勝ちを誇れるというわけだ。

しかしネット民的な文化とは関係ない一般人は日常的に類推を行う必要があり、いちいち学問的な見解にソースを要求するような手間も時間もなく、論理的かつ現実的に妥当であるならば是もしくは意見を保留したりする。むしろ専門家の専門領域における高度に専門的な議論でない限り、いちいちソースを求めるのは邪推とされ、敬遠されるだろう。

反知性主義と言われるネトウヨは勿論、ネトウヨを攻撃するネトサヨもこの傾向は極めて強い。ネトウヨもネトサヨも議論を引っ張ってくれるリアルな言説があり、根拠となるソースもリアルな言説だ。ネトウヨやネトサヨに推測や仮定、高度に教養のある話をしても否定される。それは反知性主義とは別に、ネット民的文化が優越しているからだ。

 

特徴③匿名性

ネット民の言説や活動を支えるのは言うまでもなく匿名性である。ネット民の特徴である①と②は匿名性によって担保される。法的な介入を招く契機があれば、ネット民は言論活動を行うことができない。たとえ訴訟といたらなくとも、プロバイダーが介入して、投稿の削除やアカウントの停止を行う可能性があるからだ。

しかし匿名性が少しでもあれば、ネット民はリアルな一般人を駆逐するのは容易になる。単に嫌がらせ行為を行えば、一般人は撤退するからだ。ネット上のやりとりに人生をかけているのはネット民だけである。事実、Twitter JAPANにおいては匿名率が欧米に比して圧倒的に高い。

逆説的に匿名でなければ、そのアカウントはネット民ではないと評価できる。匿名ではないということは印象操作などを行う気がなく、法的な介入も受けるリスクがあり、自身の言説の正当性に自信を持っていると言えるからだ。

しかし反論する人もいるだろう。「例えば百田尚樹などはネトウヨではないか?」と。私は百田尚樹氏などのような言説はまともでないと主観的には思っている。しかし百田尚樹氏はネトウヨ的ではあってもネトウヨではないと考える。何故ならば、客観的には正しくない意見であっても、言説としての手続きつまり法益を侵害していないのであれば、それは表現の自由であり、政治的自由権であって、正当だからだ。

また百田尚樹氏やネトウヨをリードするリアルな新右翼活動家をネット民的なネトウヨと評価することは、例えば枝野幸男氏やネトサヨが影響を受ける左派的市民運動をネット民的なネトサヨと評価するのと同じになる。リアル→ネトウヨ、リアル→ネトサヨであってもネトウヨ→リアル、ネトサヨ→リアルということは現実にはあり得ないのだから、リアルとネット民は別個に取り扱うべきだ。

具体的には、例えば百田尚樹氏は政治学で対象にするべきであるし、ビジネス右翼は犯罪学で対象にするべきで、ネット民の分析とは確かに接合するけれどもメインにすべきではない。

そもそもネット民の問題を過大に取り上げ、対象を大きく広げることは、関係がない一般人にまで対象範囲を広げかねず、それは表現の自由の問題になり、更にネット民の主要な問題にネトウヨやネトサヨがあるのだから、一般人の政治的自由権の問題になることは、近代市民社会の理念から大きく逸脱するのだから、避けねばならない。

 

余談 数年前の話である。行きつけだった飲み屋で知り合いだった男に「お前はネトウヨか?」と絡まれたことがある。私は、社民党に入れたことはあっても自民党に票を投じたことはない、と答えた。「じゃあ、お前はネトサヨか?」と因縁つけられたので、「あなたがネトウヨなだけじゃないですか?」と返した。

この議論が不毛なのは、その男も私もネトウヨでもネトサヨでもないということだ。

その男は特徴①②があるけれども、匿名どころか実際に飲み屋にいて、公然と聞いてきたのだし、ネトウヨまたはネトサヨが「ネトウヨか?」「ネトサヨか?」なんて聞かないだろう。

更にこの話はネトウヨネトサヨの潜在的な問題を示唆している。つまり他者を攻撃するだけの擬似的正当性を有しているということだ。

日本は世間があって、完全にリーガルではないから、定義がないネトウヨやネトサヨという言葉は他者を排斥するのに便利な言葉だ。実際、ネトウヨと評価された人が名誉毀損訴訟を起こすことが増えている。

こういうことは、単にネトウヨネトサヨの問題の本質が社会に理解されておらず、定義すらまともに考えられてないからだ。

私が警察に電話して、その男を迷惑防止条例違反で突き出せば良かった、というだけの話ではないのである。