merlinrivermouth’s diary

https://twitter.com/@nnmwj

ネトウヨとネトサヨとネット民

一般的にネトウヨという存在は知られていても、ネトサヨという存在はあまり知られていないのではないだろうか?

ネトウヨという存在を否定するというイメージを以ってネトサヨをイメージすれば、リベラルで理知的であり社会通念に即した判断ができると考えるだろう。実際、ネトサヨ自身はそのように自負しているし、外見上はそう見える。しかしそれは間違いだ。

ネトサヨのハブサイト、ハンJやてきとうなどのような匿名提示版に出向き、一週間も議論すれば実態がわかる。彼らにとっての議論が意見交換であることは少ない。それは第一に自身の党派性または仲間内の明示であり、第二の判断材料は印象である。彼ら自身が自身をリベラル、理知的と任じているので、一見して理性的或いは妥当性または社会通念的議論ができると考えていたら、手痛いしっぺ返しをくらうことになる。彼らにとってネトウヨ的なものは悪だ、というのは分かる。しかし状況的に明らかな間違いを認めたり、妥当とはいえない言動を改めたりすることはない。またネトウヨ的と彼らが判断したり、自らの考えが間違いだと証明し得る何かがあったり、そもそも彼らの内部社会に沿わない者に対しては容赦がなく、不法行為にさえ及ぶケースもある。

例えば、ネトサヨのある提示版で不当な扱いを受けた者がいたとする。彼が他のネトサヨの提示版で糾弾しても、その提示版の管理者自体が問題が起きた提示版と関係があるので、被害者が明らかに不当な扱いを受けていると判断できても、その被害者を糾弾したりする。しかもその被害者がプロバイダーに通達すると宣えば、「サヨク運動を潰す気か?」と総出で攻撃されるのは必定だ。

これは実際の左派というものを知っている者ならば、釈然としないものがあるだろう。何故なら、内部社会を守るための同調圧力個人主義であるリベラルとしてはあるまじき行為であるからだ。それをネト「サヨ」が何のブレーキもなく行えるというのは想定しにくい。

 

ここでネトウヨに論を変える。

ネトウヨというのは麻生政権時にネット民の少数派から誕生した。日本会議はオタクとネット民の因果関係に目をつけ、コミケなどを通じて宣伝活動を行った。荒らしや引きこもり問題、就職難と重なって、不満やる方ない層を吸収し、急激にネトウヨが増加し、伸長した。

ネトウヨという存在はそれまでの右派とは事実上切断されており、左派的なものに対する攻撃さえあれば、百花繚乱のなんでもありの言論状況である。概ね一般的なネトウヨのスタイルは自身を国家体制と同一視し、それを正当化根拠に左派的だと自らが判断したものを攻撃する、というものだ。彼らに、社会通念や一般常識などは通用することはなく、彼らのそれは彼らのグループ毎に保持され、依存している。

彼らが右翼であるのは、彼らにとって体制を左派と捉えているからだ。自民党の政治支配を鑑みれば、非常に疑問符であるが、私は小中高と鑑みればさもありなんと思える。というのも彼らにとって左派的というものが、先生に覚えめでたい生徒だったり、学業優秀な生徒であったり、交友関係が作れている生徒だったりするならば、彼らが右翼に傾くのは当然だ。勿論、所謂リア充というものに左派的なものは関係しないし、むしろ資本主義的には逆であるわけだが、彼らは世間とか社会とか常識とかの言葉に過敏に反応し、リア充に異常に執着する。

多くの人は彼らの右翼性を取り上げるが、私は彼らのネット性に注目している。彼らの主戦場はネット上で、しかも匿名性が保持されているものだ。彼らがネットを飛び出してくるのは稀で、彼らがネットを飛び出してくるケースは大抵社会問題化される。

その原因は、彼らがネット右翼になった原因を突き詰めれば、非常に容易に推測できる。

彼らは社会や世間に対してルサンチマンを持っているからこそ、サブカルチャーに興味を持ちネット民になってネトウヨ化したのだから、ネット上を一度出れば、ネトウヨという大義名分がある以上、社会や世間と軋轢を起こすのは至極当然なのである。

つまり、ネット右翼において重点が置かれるのはその右翼性ではなく、ネット民性であろう。

 

本論をネトサヨに移す。意外なことにネトサヨの歴史は新しい。ネトサヨはネトウヨ退治を語りたがるが、それに反し登場は安倍政権が誕生して暫く後である。私は安倍政権が誕生する直前から二年間、ネトウヨの巣窟と言われるYahooの知恵袋の政治カテゴリにてネトウヨと議論していた。しかし、私と同類の士には三人くらいしかお目にかかったことはない。これはネトサヨの反ネトウヨ性という要素と合致する。つまりネトサヨはネトウヨに対するアンチテーゼとして誕生したのだから、ネトサヨはネトウヨより後発というのは当然の帰結になるわけである。

ネトサヨが仲間内の左翼であって、実態としての左翼ではないのは既に述べた。ネトウヨも同じである。仲間内として右翼であって、実態としての右翼ではない。

ネトウヨは匿名ネット以外に出れば軋轢を起こすことは既に述べた。ネトサヨはどうだろう?ネトウヨほどは軋轢を起こしていないが、ネトサヨも軋轢を起こしている。ネトウヨは社会的評価を貶めるラベリングであるので、ネトウヨを名乗る知人友人は少ないのは当然だが、社会的評価が定まっていないネトサヨはそうでなくてもいい。だが、ネトサヨを名乗る知人友人は少ないだろう。

ネトサヨが仲間内を第一にしたり、論理や理知や社会通念より先に印象や内部社会の基盤を元に判断するのは、ネトウヨと同じく政治という手段が自己のアイデンティティ保持のための目的でしかなく、内実化する必要がないからだ。

 

ネトウヨとネトサヨは表裏一体であり、根が同じである。彼らは第一にネット民であり、従って社会や世間にルサンチマンを抱え、その発露が右翼であり左翼であって、社会を構成する能力がない。つまり、ネトウヨ問題とはネトサヨ問題であり、ネトサヨ問題とはネトウヨ問題であって、とどのつまり、根源的にはネット民問題なのだ。故に、ネトウヨの現象を語る場合には、ネトサヨという現象も外さず、論旨としてはネット民の社会現象まで遡って鑑みる必要がある。ネット民という社会現象を踏まえなければ、政治学的にせよ、社会学的にせよ、ネトウヨという現象を説明できないはずだ。

 

余談 私は実情を知らぬ時、ネトサヨの提示版を見つけて感動してしまった。私が孤独にネトウヨとやりあっていた過去は過去となり、流れが変わったように思えたからだ。

私は立民の議員候補が少ない旨を提案した。ところがネトサヨの反応は薄く、「ここを政治的なものと勘違いしている」という。後日、日本の時代遅れで非人権的な精神科を褒めよやしていたので、指摘したところ、以前に私が立民の議員候補を募集したことを槍玉に挙げて、一斉に私を攻撃した。「立民も馬鹿なスタッフ雇ってる」と。庇うネトサヨは誰一人おらず、私をブロックした上で、次のブログ記事で私を吊るしあげた。

ところが冗談みたいな話だが、立民や社民や令和新撰組の候補者の公募にネトサヨは応じてくるのである。それも大勢。大多数はリテラシーがないのか立場性をわきまえていないのか両方なのかはわからないが、お断りされているのが現状である。

口だけ番長もいい加減にして欲しいものだ。

現実化、社会との接合性の契機を放棄し、左翼というのが手段でしかないからできる諸行である。何らネトウヨと変わることはない。